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第3回(その1) 「中之島周辺・タウンウォッチング」 2001年6月30日(土) 13時 - 15時45分 |
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| コースの紹介 (このページ) |
JR大阪駅スタート→四ツ橋通り・桜橋→桜橋跡→キタ新地・薬師堂→新地本通り・蜆川跡碑→堂島川全日空H前・堂島米市場記念碑→堂島川→大坂市役所・日銀大坂支店→土佐堀川・淀屋橋→淀屋屋敷跡→御堂筋 |
| (つぎのページ) (適塾-中之島-天満) |
今橋3→緒方病院・除痘舘跡碑→愛珠幼稚園・銅座跡→北浜3・適塾・緒方洪庵碑→中之島・公会堂(改修工事中)東洋陶磁美術館→関市長像→ばら園→土佐堀川・難波橋→天神橋筋→大阪天満宮→川端康成生誕地・相生楼→南森町・パソコン教室STCゴール |
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桜橋南詰跡 かって新地の中心を流れていた蜆川(曽根崎川)にかかっていた橋で、近松門左衛門「心中天綱島」の「名残の橋づくし」の一節にも「別れを嘆き悲しみて跡にこがるる桜橋」とその名が、梅田橋、緑橋とともに出てくる。元禄から宝永時代にかけて(1688-1711)ここが弦歌さんざめく花街だった名残である。 |
| スタートのJR大阪駅 | 桜橋南詰後跡 | |
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堂島薬師堂 聖徳太子が四天王寺創建時に、建築用材の運搬船が暴風雨で難破、洲の中に流つき、お堂を建てたとの説があり、これが薬師堂の起源とも言われている。海上を航行する船から、このお堂が見えたところから薬師堂のある島が「堂島」の地名になったとも言われている。お堂内には、薬師如来像、地蔵菩薩像、弘法大師像など仏像四体と、ねはん図など軸二本がおまつりしてある。堂島薬師堂は、堂島の世相、経済と連動しながら栄枯盛衰を繰り返し、現在は、月2回の法要と、節分の日に、厄払いと鬼払い行事を行っている。 |
| ドーム型のしゃれた堂島薬師堂 | 池の真中にある薬師堂 | |
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蜆川跡 新地の本通を東へ、並木道を左に折れたところに曽根崎川跡の碑、すぐ右隣に蜆橋銅板標がある。蜆川(曽根崎川)は、かって堂島川から分かれて新地の中心を東西に流れていた川で、元禄元年(1688)に河村瑞軒によって改修され、その両岸に繁華街の堂島新地、曽根崎新地が形成された。「心中天綱島」の道行きの舞台となったこの川も明治42年の「キタの大火」をきっかけに埋め立てられて現在は碑を残すだけとなっている。 |
| 蜆川跡の碑、今は新地のど真ん中 | 周辺は夜の華やかなネオン街 | |
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| キタの新地のかに道楽 | しゃれた店が並ぶ | 新しい堂島の顔 |
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堂島米市場記念碑 堂島米市場は、天正年間(1573-1592)に大商人淀屋常安が、淀屋橋南詰で米・粟の売買を始めたのが始まりで、元禄10年(1697)にこの地にうつり、大阪商業繁栄の象徴的存在として、数多くのエピソードを残しながら昭和14年まで続いた。享保15年(1730)に幕府は、堂島米市場に米の先物取引である帳合米取引を公認した。その取引の手法は現在の組織化された先物取引の先駆をなすものといわれている。商品・証券・金融先物取引の先駆をなすものであり、先物取引の発祥の地とされている。(全日空ホテル南側・堂島川との間にある) |
| 堂島川から大江橋方面 | 堂島米市場記念碑 | |
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| 左・大阪市役所、右・日本銀行大阪支店 | 大阪市役所 | 土佐堀川にかかる淀屋橋 |
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淀屋の屋敷跡 淀屋橋南詰の交差点西側(ミズノ向い)にある淀屋の屋敷跡。豊臣秀吉が伏見在城のときに行った淀川の築堤工事を請け負って財をなした、淀屋の初代・常安の屋敷があった場所。常安は後に大坂三卿の惣年寄りに任ぜられ、また、当時は中洲として放置されていた中之島の開拓に尽力。いわば、大坂を代表する大商人として、屈指の繁盛を誇った。宝永2年(1705)5代目辰五郎のとき、その町人身分を超える派手な生活ぶりが咎められ、全財産を没収。屋敷も所払いに遭い、はかなくも没落した。現在はその屋敷跡に石碑があるだけになっている。 |
| 左から住友生命、元住友銀行本店、大同生命本社 | 淀屋橋のたもとにある淀屋屋敷跡 |