賎ケ岳・余呉湖・・・合戦の跡を訪ねて(1)
木之本町ー北国街道
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2002年7月28日

【青春18きっぷを利用して】

賤ヶ岳
の合戦

山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉は、織田家中で大きな発言権を握っていくが、これに反感を募らせる武将も多く、その旗頭は柴田勝家であった。秀吉は勝家の攻撃の機会を狙っていた。勝家は天正11年(1583年)4月、北近江に出陣した。同月20日、大岩山砦の秀吉方中川清秀が柴田方の佐久間盛政に討たれた。大垣でこの報を受けた秀吉は、好機到来とばかり、木之本へ急行させ、意気あがる盛政を賤ヶ岳で襲った。盛政は敗れ、勝家軍も総くずれとなって北ノ庄城へ逃げ帰った。勝家が自刀したのは、その三日後である。この賤ヶ岳の勝利で、秀吉は名実ともに天下人への道を独走していった。

賤ヶ岳
七本槍

この戦いで秀吉の武勲者として、史上に名をとどめた「賤ヶ岳の七本槍」とよばれる七人衆がいた。大岩山にとどまっていた佐久間盛政の部隊が退却を開始したのを知り、秀吉の旗下七人衆が、どっと斬りこみ一番槍の功をたてたのである。福島正則を隊長として、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟野武則の若武者たちであった。

賤ヶ岳】は標高422メートル、琵琶湖八景の一つで山頂から南を望めば琵琶湖が広がり、近くには竹生島が見られ、遠くは長浜城が遠望できる。北西にかけては、羽衣伝説の伝わる余呉湖が見える。天正十一年(1583)の羽柴秀吉と柴田勝家の大合戦の戦場としてあまりに有名である。写真左上は、木之元町側から見る賎ケ岳、右上は、頂上へ通ずるロープウェイ乗り場。
ロープウェイから木之本の田園風景が見える 頂上から眼下に湖面静かな奥琵琶湖
賤ヶ岳の戦いで亡くなった人がまつられていると言われ、お堂の周りには、絵馬がたくさん結ばれている、
              頂上にある賎ケ岳の戦い戦跡碑と七本槍の古戦場跡
秀吉配下の勇敢な兵、福島正則を隊長として、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟野武則の七人槍をふって戦う。向こう所敵なし、世にこれを賤ヶ岳の七本槍という
頂上から眼下に見える余呉湖       武者の像
猿が馬場
首洗の池
中川清秀は、秀吉に味方し参戦したが、佐久間盛政の奇襲にあい全滅ね、清秀百回忌の天和2年、5代の孫久恒が建立。