![]() |
新選組ゆかりの史跡を訪ねて(1) ★京都駅11時スタート不動堂村屯所→西本願寺太鼓楼→島原大門→輪違屋→角屋→壬生寺(壬生塚)→新徳禅寺→八木邸→前川邸→光縁寺→六角獄舎跡→二条陣屋→京都所司代屋敷跡→京都守護職屋敷跡(府庁内休日で入られず)→蛤御門(京都御所)→薩摩藩邸跡ゴール16時→地下鉄今出川駅→京都駅 |
| 2004年2月28日 |
| 新選組ゆかりの史跡を訪ねるウォーク(シリーズ-1) | |
![]() |
★京都駅八条口11時スタート→烏丸今出川ゴール ◆不動堂村屯所跡(第三屯所)◆ 新選組最後の第三屯所があった不動堂村屯所跡。現在はリーガロイヤルホテルになっている。その一角に碑が立てられており、碑には近藤勇の歌が刻まれている。 事あらばわれも 都の村人となりて やすめん皇御心 新選組局長 近藤勇 半年後には、伏見への移転を余技なくされた。 |
![]() |
◆西本願寺(第二屯所)◆ 新選組の実働期間は5年、池田屋騒動で名を挙げた新選組は隊士が200名近い大所帯になった。壬生屯所では狭くなり、肥大化する組織体制を整えるために300畳もある西本願寺の北集会所に目をつけ、再三移転を申し入れるが寺側はなかなか承諾をしなかったらしい。尊王派であった西本願寺の警護を名目に幕府の了解を取り付け、壬生から移転、2年間を第二屯所とした。当時が新選組の黄金期。 |
![]() |
◆西本願寺・太鼓楼◆ 隊士達が寝泊りしていたのが太鼓楼(太鼓番屋)。 新しいこの屯所で新選組は、大砲射撃の訓練や殺生を禁じられている寺で肉を食べるなど、寺側とのトラブルは絶えず、たまりかねた西本願寺は大屋敷のような建物と土地を用意して移転させた。それが第三屯所・・不動堂村屯所となる。 |
![]() |
◆島原◆ 豊臣秀吉が京都を再興するにあたり二条柳馬場に花街を公許、1641年に現在に移転された。 周囲が1万2,6000坪という広大な敷地に不夜城の町が形成された。 島原は壬生の南方にあたり近く、新選組に限らず、勤王も佐幕、諸藩の接待の場に使用されたという。門を入りまっすぐ歩けば角屋、右の路地に入れば輪違屋がある。 ◆島原大門◆ 遊郭への出入は遊女の逃亡を防ぐために四方を塀で囲まれ東のこの大門だけだった。現在の位置になったのは1766年(明和3年)、後の1854年(嘉永7年)の大火で焼失、1867年(慶応3年)に現在の門に建て替えられた。 |
![]() |
◆島原大門・防火用水と手桶◆ 大門の脇の防火用水と手桶(下の左写真)は、火災発生にもかかわらずこの大門がつまっていたため逃げきれず遊女の多くが焼死した。以来、手桶が常に設置されるようになった。 |
![]() |
◆輪違屋◆島原遊郭の置屋の一つで現在、唯一残っている。置屋とは、芸舞妓を抱えている店で、揚屋(料亭)や茶屋の要請に応じ、芸舞妓を派遣するシステムになっていた。遊女の中で地位の高いのが太夫・天神。新選組隊士の馴染みの太夫・天神がいた。 ←輪違屋の全景 ここから芸舞妓は各店に派遣された。 |
![]() |
◆角屋◆島原遊郭の揚屋の姿を今に伝える重要文化財に指定されている。木造二階建て、格子造りの窓が美しい角屋は、ほとんど当時のままの姿で残されている。建物は現存する唯一の寛永期の揚屋建築で、新選組の宴会場所となっていて、芹沢鴨をはじめ、ここには新選組に関するエピソードも数多く残されている。 |
![]() ← ◆芹沢鴨がつけた刀傷 ◆襖絵◆→ ◆角屋の暖簾◆↓ ![]() |
![]() |
![]() |
|
![]() 右の石標裏面文 「久坂玄瑞は 吉田松陰の義弟 松陰死後塾徒を率い 尊攘に挺身 文久政変に山口へ七郷落ちを斡旋するも 元治元甲子年七月 蛤御門の変に遭い 壮烈な死を遂げた 享年二十五 角屋は玄瑞が暗殺の難を避け潜行密議した場所である」 |
◆長州藩志士久坂玄瑞の審議の角屋◆ 江戸時代中期の島原には、俳壇が形成されており、中でも角屋の六代目、七代目の当主は、蕪村・太祇らを師として俳壇の中核として活躍していた。 幕末には、諸大名をはじめ、西郷隆盛、桂小五郎、久坂玄瑞、坂本竜馬、山県有朋、伊藤博文、井上多門、大隈重信、僧月照などの勤王の志士がこの角屋を利用し、また、西郷隆盛などの勤王の志士たちが、軍用資金調達のため、鴻池、加島屋などの豪商をこの角屋へ招き、しばしば饗宴(宴会)を催したと伝えられている。また彼らを探し求めた新選組が乱舞した場所でもあった。門屋は江戸時代の社交遊宴文化の場であった揚屋文化の余香を今に伝える。 建物は昭和27年に国の重要文化財に指定された。また、絵などは応挙・蕪村など、当時一流の画人の作品で、特に蕪村の「紅白梅図」の対策は重要文化財に指定されている。 ・・角屋の前に立てられている京都市の案内版・角屋のパンフレットを参考にして・・ |
![]() |
◆壬生寺◆991年(正暦2年)に創建。伝統の壬生狂言で知られている寺で、本尊は、延命地蔵菩薩、水掛け地蔵をはじめ多数の地蔵菩薩を祀っている。境内には、壬生塚があり新選隊士が葬られている。 ◆壬生寺と新選組◆ 京都に入った浪士・新選組は最初の屯所となった八木邸の南側に位置しており、新選組は、境内へ馬を乗入れたり、大砲を打ち続けるなど兵法訓練をしたため、参拝客が激減、寺にとっては迷惑なものだったらしい。 |
![]() ◆近藤勇の像◆ 壬生寺境内にある壬生塚には、新選組局長・近藤勇の胸像と遺髪塔、屯所で暗殺された芹沢鴨、池田屋騒動で亡くなった新選組隊士数名、勘定方・河合奢三郎らが葬られている。 写真右 新撰組隊士の墓 新撰組顕影碑 壬生塚 |
![]() ![]() |
![]() |
◆新徳禅寺◆(非公開) 1863年2月、将軍徳川家茂の上洛警護ののため、清河八郎の率いる浪士組が入洛した。浪士達は、まず、ここ新徳禅寺に集められた。リーダーの清河八郎が「我々の真の目的は将軍警護にあらず、ただちに江戸に引き返し、黒船から国を守ることにある」と演説し、在京二十日余りで再び大半の浪士は江戸へ引き返したが、近藤勇、芹沢鴨、土方歳三らは、引き続き京都の警護のために残留し、京都守護職松平容保の支配に属して後に「新選組」と名乗った。 |
![]() |
◆新選組発祥の地跡・八木邸(第一屯所)◆ 写真左・八木家の長屋門。 新選組は、1863年(文久3年)3月にここ八木邸にて誕生した。残った近藤勇一派と水戸浪士の芹沢鴨一派ら十数名が屯所としたのが旧前川邸と八木邸であった。 ともに民家だが、八木邸は立派な長屋門の奥に本館があり、庭も広く庄屋の風情がある。新選組はここで誕生するが、このときの名称は「壬生村浪士屯所」。新選組を名乗るのは、上洛から半年後のことになる。「新選組宿所」の表札を掲げ、隊員はずか十数名で発足したが、次第に隊員も増え、付近の農家に分宿した。1865年(慶応元年)4月に屯所は西本願寺に移された。現在も当時の姿をほぼそのまま保っている。近藤勇ら幹部が毎日のように密談したという座敷や、隊の規則を乱した幹部の芹沢鴨が土方や沖田らに暗殺された部屋も残り、そのときについた刀傷も見ることができる。 |
![]() |
![]() 当時の壬生は農村で、八木家は、壬生村きっての旧家で、かって壬生郷士の長老をつとめていた。 写真右・新選組屯所遺蹟 |
![]() |
◆旧前川邸◆(非公開) 近藤勇・土方歳三らの宿泊所。隊の掟「局中法度」に触れ切腹を命じられた山南敬介は島原の遊女「明里」と格子越に最期の別れを惜しみ生涯を閉じたところ。新選組の名を轟かせることになった池田屋騒動は、この前川邸で新選組から過酷な拷問を受けた近江の志士・古高俊太郎の自白がもとになった。現在は非公開。 |
![]() |
◆光縁寺◆ 門前に「新選組之墓當山」と示すとおり、ここの北墓地には多くの新選組隊士が眠っている。供養されているのは山南敬介・松原忠司など二十七名で沖田聡司と関わりのあった人物の墓もある。 墓を見るには有料。 |
![]() ◆六角獄舎跡◆ 安政の大獄以降、多くの政治犯が投獄され、会所ともいわれた。幕末当時、六角獄舎には統幕、尊王攘夷活動を行った政治犯が多く投獄されていた。蛤御門の変で出火した火が六角獄舎に迫ったとき、収容者の逃亡を防ぐため33名が処刑された。その実行隊が新選組といわれている。 勤王志士の指導者・平野国臣が処刑されたところ。受難の地の碑がたてられている。 この碑もマンションの隅にあり発見するのに一苦労した。 |
![]() |
![]() |
![]() ◆二条陣屋◆ 京都に屋敷を持たない大名の上洛中の陣屋(宿泊所)になった建物で、大名の身の安全を守るため忍者屋敷同様のカラクリを持つ部屋を備えており、建物は外部がすべて土蔵造りの完全な防火建築になっている。数寄屋造・書院造を折衷した特異な町屋建築で母屋と土蔵二棟が重要文化財に指定されている。 |
![]() |
![]() ◆二条城◆ 当時の壬生周辺は田園地帯で10軒まりの屋敷が点在する程度、途中でさえぎるものがなく、屯所であった前川邸、八木邸から二条城を見ることができた。 1867年(慶応3年)12月9日、王政復古が発せられ、265にわたる徳川幕府は廃絶。天皇を中心とする新政府がが発足。最後の将軍徳川慶喜は、二条城から、大坂へ下っていく。 |
![]() |
◆京都所司代屋敷跡◆ 徳川時代の所司代は、関ヶ原の戦い直後に設けられ、強い権限を持ち、幕府の老中につぐ重要な役職のひとつだった。 この碑は、小学校の塀に食い込むようにして立てられており地図ではなかなか見つけられない。発見するまでずいぶんと時間がかかつた。 |
![]() |
|
| ◆地球環境京都宣言◆京都府庁前に立てかけてある。 | |
![]() |
|
| ◆京都府庁◆ ◆京都守護職屋敷跡◆ 休日は敷地内に入れず碑は見られない | |
![]() |
![]() |
![]() |
写真上右 ◆京都御所・蛤御門◆ 長州藩は、薩摩・会津藩と蛤御門を中心に戦い・・・蛤御門の変・・・に敗れた。この戦いは一日で終わったが、戦火は三日 にわたって燃え続け焼失した家屋は二万八千を超えた。蛤御門は通常は閉じられていたが、大火の際に初めて開かれたので熱を加えると開くということで蛤の名がついた。今でも銃弾の跡が残っている。 写真上左・◆京都御所・建礼門◆内に紫宸殿がある ←写真左・長州藩の勇将 来島又兵衛が薩摩軍によって戦士したところ、碑が立てられている。 ↓写真下・京都御所で一番好きな場所、正面が大文字山 |
![]() |
|