のんびりゆっくり 東海道シリーズ-10
2008.04.01 知立→岡崎


4月1日東海道五十三次ウォーク、シリーズ10回目は三河の「知立宿」(愛知県知立市)から「岡崎宿」(岡崎市)までをひとり歩きをしてきた。

新大阪駅を7時8分の東海道線新快速電車で米原駅へ。
米原からJR東海に乗り換え関ヶ原を超え岐阜県の大垣駅へ、ここで二度めの乗り換えで名古屋駅へ。

この時期、青春18きっぷを利用する元青春18のおじさん、おばさん、現役青春の学生さんでいっぱい、大垣からは身動きのとれないすし詰め、もちろんすわれない。
JR名古屋駅から名鉄名古屋駅へ。このルートは三度目でしっかり覚えた。目的地の牛田駅までに早い電車を駅員さんに聞くと親切に教えてくれた。名鉄名古屋駅でこれまでも何度か訪ねたが、早い電車と時間、乗換駅、番線までとてもていねいに教えてくれて感じがいい。電車を待っていると、おっ、かっこいい 中部国際空港行きの特急や!名鉄名古屋駅4番ホーム。
名古屋から名鉄特急豊橋行き10時4分に乗り知立で乗り換え10時32分、目的地の前回ゴール牛田駅に10時34分着いた。知立駅まで乗ってきた特急↓ここで各停にのりかえ。
やっと着いた、名鉄名古屋線牛田駅。10時34分。
牛田駅、1月14日以来ひっさしぶり!!
駅横で簡単なストレッチ、若い男性が不思議そうな顔して見てた。不思議なんやろか?駅から本来の東海道へ急ぐ、ここは前回も通ったところ。
最初のポイントの84番来迎寺一里塚跡。前回1月にここまで来ていたが今度は桜も歓迎してくれている。
84番来迎寺一里塚跡、道路の左右にある。両方に残っている一里塚は少ない。これも数少ない一里塚だ。10時55分。塚のまわりのゴミ箱が気になる。この来迎寺一里塚は道路をはさんで左右一対になっている。(下の写真が道路進行方向左側)直径11メートル、高さ三メートルの塚の上に植えられているのは榎ではなく松だ。説明板より
次の三叉路左側に元禄の道標が二つ。古くて文字がよく読めないのとガードレールが・・・こら邪魔するな!オーガラ悪っう!最近は暴走親父にすぐなってしまうなあ・・・警告。「従是 四丁半北 八橋 業平作観音有元録九丙子年朔月施主敬白」と刻まれている。コースを外れて左へしばらく行くと業平ゆかりの無量寿寺を訪ねることにした。
在原業平のゆかりの寺でかきつばたの有名な無量寿寺へ。このあたりは業平ゆかりの名所が点在している。
芭蕉句碑 "から衣きつつなれにしつましあればはるばる来ぬるたびをぞおもふ"かきつばた五字を詠みこんだ句。
掲示板に書かれていた。叱ってくれる人いたかなあ
元の東海道へ戻りすすむと満開の桜がきれいな来迎寺公園の前を通る、風にひらひらと花びらが芝生に舞い降りるのは風情がある。こんなところで弁当を食べたいがまだまだ早い。おっと、弁当はまだ仕入れていないぞ!
このあたりで「知立市」から「安城市」に入ると思う。
猿渡川を通ってすすむ、風が心地よく吹いて気持ちよい。
欄干のデザインが凝っている。松並木を描いたものだ。
ところどころに松が・・・並木の残り松だろうか・・・昔はこのあたりも松並木が続いていたのだろう。いまでも民家もまばらだからさびしいところだったに違いない。
がんばれ、腰の曲がったおじいさん松!倒れるな!
単調な道が続く、このあたりは見どころがないので、とにかくしっかり歩き、歩け、歩け!オイチに!オイチに!
このあたりから松並木が続く、これぞ東海道。迷う心配がなくてありがたい。通り過ぎるのが惜しくてもったいなくて・・・振り返り、道路を右へ左へと渡りながらデジカメで撮り続ける。車の量も少ないのでまあいいだろう。
おっと、きた、こっちも怖いが車も怖がっている・・・うしろからひっかけられたらおしまいや。右へ移動!
石田川を渡り今本、今村交差点を過ぎて東栄町交差点にくる。ここかにまた松並木が始まる。
松並木が途切れているところは工場が多い、きっと並木を切り取って工場や会社の建物が建てられたのだろう。
21歳で江戸に出て活躍した郷土の力士像。清見潟又一の碑。青布神社の一角にある。
次の石橋団地入口の信号を過ぎると右手にグリーンセンター安城北店が見えてきた。もう昼だ。ここで弁当を仕入れてこよう。珍しい「あさり山菜弁当」があったので今日はこれにきめた。ついでにあげたてにつられて「串焼き二本」を買い、さにらに出口で「鯛焼き」の匂いにつられて一個買った。名古屋駅でもあんパン二個買っているので遭難しても食料は大丈夫だ。
豪華な昼食になるぞと近くの道路わきのベンチへ。12時5分。先客の煙草を吸っていたおばさんが声をかけてきた。5年前に痴呆と糖尿のご主人を亡くしたそうで72歳とのこと。なかなか口達者な人とみた。後から来た者の弱み、いきなり弁当をたべるわけにもいかず少しくらいは聞いてあげよう・・・
あなたは優しそうだから・・・この言葉で逃げられなくなった! 
ひとりはさむい! というおばさんの身の上から始まり亡くなった亭主の話、娘、息子、孫・・・どんどん話が広がる。おまけに、うまく、こちらの身の上まで聞きだされて、ほんまにこの人、うまい。あれやこれとにつきあってちょうど1時間、まあ、おばさんの人生を聞かせてもらった。

途中で断ってあさり山菜弁当たべ、冷えてしまった串焼きたべても話はおわらない。実は、ここで費やした時間が後半にひびいてくるのだ。

自分とはそんなに違わない年齢なのだが、母の話だと思って聞き続けたが、次の歩程もあるので心の中で

”おばさん、かんにん、先を急ぎますので” 
と立ち上がってお別れした。

 ”奥さんを大事に、一人になったらさむいですよ”

じーんときた。 お達者で!
予定の時間をかなり過ぎている・・・ぶつぶつ言いながらここからがウォーカー魂や!(?聞いたことない) 行くぞ!
道を探す必要のない松並木が幸い。どんどん歩く。
このあたりの並木の松は、なんでも樹齢は200年から250年くらいらしい。倒れかかるように傾いた松もあるが元気いっぱいだ。幹にさわりたくなって(みんな男松だと思うのでセクハラじゃないな)
お疲れ様! とそっとなでたら
  ありがとう! と言ってくれたような
長生きしてネ!と言ったら
  ありがとう、あんたもな!
と言われたような気がした。
こんなところで毎日歩いてみたい・・・安城の宝だな。
どこまでも続くぞ。
西三河一帯に灌漑する用水の通水を記念する明治用水碑が交差点角にある。用水は下を流れているらしい。
記念碑の向かい側にある明治川神社、桜満開・
ここから松並木はなくなって静かな通りをすすむ。
すぐ左側に永安寺の見事な雲竜の松が見えてきた。
次の信号の右に明治天皇御駐蹟之所碑 昭和15年2月建之 紀元二千六百年記念 あっ、自分と二月違いや!
お地蔵さまと後ろに題目碑。題目とは、おつとめの際に用いられるナムミョウホウレンゲキョウの文句のこと。お題目とも言う。
すぐ右に珍しや二本松が見えてきた、なんや説明板が立ってるぞ、行ってみよう。
右が格さん、左が助さんの夫婦松だ。三河路に昔ををしのぶ夫婦松。住人と書いてある。ふーん。仲良しさん松やな。いつまでも仲ようしてや!13時23分。
宇頭茶屋の交差点を越えてすすむ。茶屋という名前が残っているのはこのあたり茶屋があったということかな。
熊野神社入り口に83番尾崎の一里塚跡がある。なにも残されていない。
隣が熊野神社、ここも満開の桜。昔はこの神社の後ろを鎌倉街道が通っていたということだ。標識が残っている。
予科練の立派な碑が建てられている。
狭い道路をしばらく歩く。一番こわい道だ。
志賀小学校入口の信号を渡ると柿崎町のきれいな松並木が迎えてくれた。このあたりきれいに清掃されていて気持ちがいい。
13時45分、柿崎の信号で一号線に合流。ここから約2キロ、交通量の激しい一号線に沿って歩くことになる。ここまで、ずっと日差しを受けてきたので水がほしくなる。ひんばんに水分補給を繰り返しながらすすむ。、
さようなら松並木のすばらしかった安城の東海道!
「安城市」からいよいよ「岡崎市」に入る。
宇頭町交差点をすぎると左側に和志王山薬師寺があり、門前に刀造跡碑がある。
ウォーキングには楽しくない単調で騒々しい道が続く。
岡崎、ここは家康公が誇りの町だ。
ようこそ 家康公と三河武士のふるさと岡崎へ。
鹿乗川を渡り鹿乗橋西信号を越えてすすむ。豊田はこのあたりにあるのかな。今日は豊川の入口まで行く。
14時13分、猫田交差点から一号線と別れて左の道へ入って行く。ここで小さなトラブルが発生する・・・
これから渡るやはぎばし(矢矧・矢作)橋のデザインだ。
穏やかな昼下がりの道をのんびりと歩き続けているうちに・・・ハテ? 様子がおかしいぞ。かなり行き過ぎていた。ゲートボール中のおじさんに聞くと、ここでも丁寧に、しかもうまく教えてくれた。ゲートボールみながらおやつ、待望の「鯛焼き」をほおばる。このトラブルで20分のロス。
教えられた通りすすみ、東海道へ復帰したと思う地点で道を確認のために地図を見ていると魚屋さんから奥さんらしき人が走るように出てきて声をかけてきた。
魚光本店の方だ東海道を歩く人がよく通るらしくて案内も心得たものだ。今日の1枚の写真撮影を頼んだら向かいの神社がいいとそこまで案内をして撮ってくれた。心からねぎらいの言葉をかけていただき見送ってくれた。
通行証明書
このおばさんだ、何度も振り返り手をふり・・・・この人とも一期一会。撮った写真はお送りします!とても温かい人だった。魚は魚光本店、よろしく!
すこすすんで左側に誓願寺、いまは矢作幼稚園になっている。ここには十王堂と浄瑠璃姫の墓所がある。魚光の奥さんが幼稚園の中にぼしょずあるから横から入りなさいとすっぱく言ってくれたのだが、鍵がかかっていて入れない。残念だけど外からのぞいただけ。
碑はこの通り撮れた。浄瑠璃姫と義経の秘話、悲話のほうだが・・・。浄瑠璃姫は、地元矢作の長者の娘で大変な才女、奥州に下る義経一行が長者屋敷に宿泊した際、姫が琴の演奏で慰めると義経はそれに合わせて笛を吹いた。その夜に結ばれるが旅経った義経から何の知らせもない。恋い焦がれた姫は乙川に身を投げてしまった。この哀話を小野お通が音曲に仕立て、信長の前で演奏したのが浄瑠璃の始まりといわれている。
なかなか立派な火の見櫓、現役のようだ。
さらにすすむと坂道のはじまるところ左に勝蓮寺。
坂を上ると矢作川、右に矢作橋がある。昔はこのあたりまでが矢作宿だったらしい。
矢作川にかかる矢作橋、工事中で橋詰めに設置されていた日吉丸と蜂須賀小六の出会いの像は移されていてみられなかった。広重はこの矢作橋を画いている。
矢作橋、こうじ中。当時は東海道一の橋だったらしい。現在の橋よりも100メートルも長かったらしい。現在は270メートル。場所は少し下流にあったそうだ。
矢作川、三河湾に流れている。"五万石でも岡崎様はお
城下まで船がつく"と言われてくらい岡崎の発展は水運によるところが大きく矢作川は奥三河との物資の流通を担ったという。
↓岡崎市内の道路でみかけたもの。
      【38-岡崎宿】 天保4年
        人口   6,494人
        家数  1,565軒
        旅籠    112軒
        本陣      3軒
岡崎宿への入口、矢作川をわたると八丁味噌の発祥地八丁町へ続く。
【八丁味噌】
蒸した丸大豆を味噌玉にし、それを豆麹にして塩水で仕込み、三年間天然醸造してつくられる。この地は矢作大豆と呼ばれる良質の大豆が生産され、花崗岩の地盤から良質の天然水もでる。さらに矢作川の水運によって三河湾吉良地方の塩も手に入った。戦国時代には保存がきき、携帯に便利なため三河武士の量食として珍重され、徳川家康時代に全国に販路を拡大して知られるようになった。名古屋名物で有名な味噌カツや味噌煮込みうどんなども、この良質な八丁味噌があってこそらしい。
八丁蔵通りをすすむ、とても雰囲気のある通りだ。
八帖町の由来は、岡崎城から八丁(870メートル)離れていたことから。
来たみちを振り返ると
ここは「ちりとてちん」」のロケもあったらしい。
太田八丁味噌店に寄ってみた。なんと見学バスが何台も止まっていて大勢の見学客がきていた。ここでスタンプを押していると小学生の姉妹らしいおねえちゃんのほうからプロフィールに持っている東海道五十三次の文字を見て

 わーすごい! と声をかけられた。

京都から東京まで歩いているよと話したら今日、京都から歩いてきたんですか?とお姉ちゃんのほうが聞いてきた
やっぱり小学生や。

道中、出会う人に”すごいですネ”とよくいわれるが本人は、ちっともそんな風に思っていない。
「なぜ歩こうと思ったか」と聞かれることもある
東京にいる息子に会いたくて三年間も息子を思い続けて歩くのが楽しい何も残すものはないからせめて親父の元気な姿を見せたくてそれが親父から息子へのプレゼント親父のやっている姿が、息子の励みになればよし。

息子訪ねて500キロ 東海道五十三次ひとり歩きだと説明している。
こんな道路表示も、岡崎城までは五丁
岡崎二十七曲りはこのあたりから始まっているのだろう。
板谷稲荷神社前の板谷本通りに「板屋町角」の標石がある。このあたりは遊郭街だったらしい。
岡崎城に十七曲り「板屋町角」の標石。
ここで二十七曲り東海道のコースからははずれるが岡崎にきて家康公ゆかりの岡崎城に寄らないのは失礼と時間的には予定のコースが回りきれなくなるのは仕方ないと納得して城へ足を延ばした。
聞いてはいたが桜がほんとうに美しい城だ西日に映える見事な満開の桜に圧倒された。岡崎城は徳川家康生誕の城だ。「神君出生の城」として江戸時代は神聖されたそうだ。
【岡崎城】
康正元年(1455)に築城された。徳川家康は、天文11年、この岡崎城内で生まれた。当時、城は今川義元の部将が管理していた。当時、今川家に徳川家康(竹千代少年)を人質として差し出していた。岡崎城は今川家の属城として城代が置かれた。1560年、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると家康は岡崎城に戻りを取り戻し今川家から独立した。その後、織田信長と同盟を結び三河を平定する。 1570年、家康は本拠を浜松城に移し、岡崎城は子の松平信義が入ったが、信康は謀反の疑いをかけられて自刃。以後、重臣が城代を務めた。1590年、家康が関東に移封となると、豊臣家臣・田中吉正政が入り、田中吉政は城を拡張し、石垣や城壁などを用いた近世城郭にふさわしいものに整備した。また、城下町の整備も積極的に行い、岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の道に整備され現在の岡崎城の原型を造った。 1600年の関ヶ原の戦い後は、徳川譜代の本多康重が五万石で入城。徳川幕府の時代中は神君家康公誕生の城として重要視し、譜代大名の名門が城主を務めた。
        東照公遺訓(徳川家康公)↑
人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りを敵と思え。勝つ事ばかり知りて負くるを知らざれば害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり。↓ 
さあ、ここから二十七曲りの探険だ!
岡崎城を出て元の東海道へ戻るのにまず一号線へ。

「岡崎二十七曲がり」は八丁味噌蔵通りあたりから始まっているらしいが、岡崎市内の中心部に入ってきていよいよこのあたりからが複雑に曲りくねっているみたいだ。
城下町特有の外敵の侵入を防ぐために城内に入る道を
複雑にしていたのだ。これまでも三重県の城下町亀山宿がそうだった。

伊賀川の確かここだろうと思った橋は工事中で名前がわからない。困ったなあ・・・少しずつ、夕暮れの漂う川の横で地図とにらめっこしているとかなり年配の女性、おばあさんが心配そうにこちらを見ているので尋ねたら、間違いなく三清橋だ教えられた。おばあさん、ありがとうね。
喜んで橋を渡り先を急いだために橋を渡った隅にあるはずの「下肴町より田町角」の道標を見落とした。
手持ちの地図が古くて簡単なものだから曲がり角の連続に四苦八苦。曲がり角にある標識を探して行くのだ。
この川に沿い前方にすすむと木まち通りに突き当りその角に「材木町より下肴町角」の標石を発見。うれしい!
足もとにこの表示があるのだが、意外と目につかないものだ。人間の常か、どうしても前方、目線は高いところに行っている。
次は木まち通り二つ目の信号右角だ。ここも見えなくて行き過ぎてしまう。逆に戻ってくると民家の植え込みに隠れるように道標があった。
なんや、こんなとこあったのか!
なんで声掛けてくれなかったんや!!
と言うても返事をしてくれるわけやない。コンビニから出てきた人がくすくす笑ろうてる。こっちは死ぬ気でさがしてんのや(ちとオーパかな) 「材木町角」 ↓これ、表の通りから絶対に見えない。
ごちゃごちゃ言わんと次を探せ!次の角を左へ曲がって、右へ入る道の角やな! ところがない! ない!なんでやねん! 路地に入って聞く人もいない・・・あーあ、地図が悪い! ぐるりと回っていると犬と散歩している女性に会った。あっ、この人、さっき道で会った人や。
すみません、二十七曲りの道標探してるんです、このへんにあると思うんですが・・・たしか、あそこあたりに石碑があったと思いますよ。
あっ、見えてる。
あった、やっぱり一筋間違っていた。なるほど、これなら外敵は入ってきてもすすめなかったのやろ。
「材木町口木戸前」↓
次はすぐ右に曲がってまっすぐ、スーパーシビコの前や。
連尺通りに出てすぐ右角へ。
あった、今度はすぐに発見!「岡崎城対面町前角」標石
なんや調子が出できたぞ。おもろいやないか!
(このおっさん、やる気になってる・・・)
ここ連尺通りを左へシビコの前を通ってすすむ。
ながーくなった足長おじさんの影 16時55分。
交差点を渡ると岡崎宿東海道27曲りの道標がある。
連尺通りをすすめ、すすめ!
一丁目の信号を越えてすすめ、すすめ!
足は快調、まだまだ歩くぞ。
と元気はええけど、ここどこやと思ってる?地下鉄乗ってすぐ家に帰れるつもりになってないか? ここは名古屋駅からも遠い お・か・ざ・き やで!
城の横を流れる乙川を利用した物資運搬の五万石船。
二つ目の龍田公園の信号を斜め右交差点角に「龍田町より連尺町角」の標石を発見。この表示は江戸側からだから自分の方向とはまったく逆で疲れてくると頭がこんがらがってきてかえって混乱させられるのだ。
東海道を歩くなら、東から西へ。西から東は苦労する。
次の角を左へ、なんやこれ! 石の風景のオブジェ。ふーん ただの石ころやろ!?疲れてくると関心なし。
和菓子屋向かいを右に入ってすすむと道路の真ん中が
小さな緑地帯になっていて「東惣門跡」についた。碑文より 「天正16年、徳川家康が江戸に移ると田中吉政が岡崎城主となり、総堀を築き、城下町を形成し、東海道の場内出入口として龍田惣門、松葉惣門を建てた」 桜が満開だが薄暗くなってきて残念。
えーとまっすぐ行くとNTT・・・前に郵便局・・
商工会議所の資料館?

ここから間違いが発生!地図ではしばらくすすんで向かい角に郵便局とNTTが書かれているがない、ない、よーくみてもない。

さすがに「すごろくウォーク」にはつかれた。
サラリーマン風の人に聞いてもわからない
おかしいなあ・・・
なんでやねん!
ひとりでぶつぶつ言ふてると人が振り返る。
おい、そこのねこちゃん
おっちゃん、くたびれたわ!
遭難食のあんパンやるから案内しておくれ!
ニャーオ!
しっかりしろ!と言うてるみたいだった。

そのまま左へ行って、また右へ行くが様子が違う。車から荷物を降ろしていた年配の男性に聞くと
郵便局までの道を教えてくれた。なんや、さっきの総門のすぐ左やないか!地図がでたらめや、くそっ!
結局あたりを一周してきて、また、再出発。

まあ、こんな時が一番面白い
まるで「すごろくウォーク」や。
そしてなんとか小さな地域をうろうろうろうろ・・・抜け出した。
惣門通りの洋風建築の商工会議所資料館の前を通る。
最初の辻を左へ、向かいに道標が立っている。
↑この道標はこういうことだ。↓
伝馬通一丁目交差点の角に「西本陣前」の標石。
信号を渡るとコンビニの前に岡崎宿西本陣跡があつた。しかし、なにも残っていない。今日はこのあたりでいいかな・・・「岡崎二十七曲がり」の後半部分は次回の楽しみに残すことにする。もう夕刻だ。
ここが伝馬通り、一番賑やかなところだったらしい。
老舗の店も残っている。そして通りの両側には、説明つきのモニュメントがきれいに並んでいて楽しい。
ここが伝馬交差点、27曲りはこの伝馬通りをまっずくに行くが今日はここでゴール、交差点右手備前屋角から名鉄東岡崎駅へとすすむ。
備前屋の壁面には、伝馬町の古い屋号の書かれた図面が正確に書かれている。
名鉄東岡崎駅で、電車がすぐに来たので駅の写真は撮れなかったが切符はこの通り。
ここから青春18きっぷを使った長い旅が始まった。

今日もいろいろな人に道を尋ねたが、ほんとうに愛知県の人は親切だ。思えば、これまでも街道のどこでも親切にしてもらってきた。日本人は、みんなやさしい、親切なんだ、これから静岡、神奈川、東京へと続くが、きっと、多くの人の優しさと親切に助けられるだろう。
今日の通行証
経路と交通費(自宅から最寄り駅は除く)
J R JR新大阪→JR名古屋往復  青春18きっぷ
  2,300円
往 路
復 路
名鉄名古屋→名鉄牛田
名鉄東岡崎→名鉄名古屋
    490円
    650円
歩 数       約34,000歩   約23キロ