のんびりゆっくり 東海道シリーズ-12
2008.05.17 赤坂→御油→吉田

5月17日、18日にお泊り東海道五十三次ひとり歩きを楽しんできた。初めてのお泊り東海道、トラブルもなくご期待の珍道中もなく無事に生還できてほっとしている。珍道中を期待してくれた人にはすみません。
コースは
 一日目  「赤坂宿」(豊川市)→「御油宿」→「吉田宿」(豊橋市)
 二日目  「吉田宿」→「二川宿」(豊橋市)→「白須賀宿」(静岡県湖西市)→「新居宿」(新居町)

初日17日は、6時前に自宅を出て新大阪6時39分の東海道線で米原、大垣を経由して名古屋へ、名鉄に乗り換えて名電赤坂に着いたのが11時12分4時間33分の電車の旅。相棒の鯉のぼり君は背中で無賃乗車。
前回のゴール後の帰り名古屋駅まで乗った無人の名電赤坂駅を降りる。これが最後の名鉄電車、おなじみの赤い電車を見送り。名鉄の人たちは駅員さんも乗務員さんもとても親切だった。ありがとう。
駅からながめる周囲の景色は緑がいっぱい、郊外のおいしい空気をいっぱ吸って、駅からまず前回ゴール、今日のスタート地点の紅里交差点まで急ぐ。
天気はよし、暑さも気にはならない。いい歩きができそうだ。 前回ゴールの赤坂宿紅里交差点を11時25分にスタート。
ここ赤坂と次の御油は「遊女」の多かった宿場で有名で旅籠の客引きが激しかったところらしい。広重の絵にもその場面が描かれている。

   【36-赤坂宿】 天保4年
   人口   1,304人
   家数    349軒
   旅籠     62軒
   本陣      3軒
まず、前回はゴールで撮った同じ石のベンチで二日間の相棒、リュックサックとこいのぼりの記念撮影だほんとうは自分の写真を撮りたいのだが、車は通るが人の姿はまったくない。道路を挟んで向かって右が「高札場跡」だ。

資料と地図を出して、いざ、出発!

まず、一番近い浄泉寺に向かう。↓広重が描いたとされるソテツが本堂前にある。百済観音が安置されている観音堂にお参り。
門を出ると20人ほどのグループとすれ違う。こんにちは、こんにちは、とあいさつするが鯉のぼり背負った変わった男に反応は少ない。
歴史ウォークか、リーダーらしい男性が盛んに説明をしていた。

見物したかった大橋屋はあいにく休業日で残念。


大橋屋は東海道中で江戸時代から営業を続けている唯一の旅籠で操業は慶安二年(1649)と言われている。右の絵は、二階の板塀に書かれている。

中をみたいと思って楽しみにしていたのに休業日とは運が悪かった。

旅人を呼び込んでいる飯盛り女の絵。赤坂宿。まさか弥次さん、喜多さんではないだろうな?

この絵は後で出てくる御油の公園の入口の説明のところにある弥次さん、喜多さんの話です。
弥次さんが喜多さんを狐の化けものと勘違いしてとらえようとしているところだろうと思います。
さて、紅里交差点からこれから御油をめざしてスタート。
もう、昼前の11時41分だ。

今日のゴール予定の吉田宿は、17時30分。そのあと、コース外だが「吉田城」跡を訪ねて豊橋公園によって18時に予約しているホテルへ。
そのあと、ネット上の友達、地元のヒデさんと逢うことになっているので予定時間内ですすみたい。


これから行く御油は16町。1,700メートル先。五十三次の中でもっとも区間の短い宿だ。


紅里という名の通り、ここ赤坂、次の御油、ゴールの吉田宿は、「赤坂や御油、吉田がなくば何のよしみで江戸通い」と唄われたぐらい「飯盛り女郎」を置く旅籠が多い宿場として有名だった。
とくに距離の近い御油と赤坂は、お互いに客を泊めて宿場に金を落とさせるための競争が激しく、そのために、飯盛り女をたくさん集めて、客の引き留めを行ったらしい。

お互いに旅人の宿泊客争いをしていたらしい。
それを楽しみにした旅人と、たぶらかされないように女たちを「赤狐」と呼んで
用心をした旅人がいたそうだ。なんでも弥次喜多さんも狐にたぶらかされたとか・・


←高札場跡・・・↓そのうちの一文
赤坂には本陣が三軒あったが、今は標柱のみ。
ここは、平松という表札がかかっており、門の右横に説明板があるので、平松彦十郎本陣か、平松弥一左右衛門本陣のどちらかなんだろう。

ここは、この門のみで内側にはなにもないから本陣跡のモニュメントとしてつくられたもののようだ。

★飯盛り女とは
   ・・・旅籠で旅行者の寝食の世話をする女のこと
本陣跡の向かい側に問屋場跡があると資料には記してあるが、その碑らしきものがない?
あれ、おかしいぞ?こういうことはいつものことだが、向かいは民家が続いておりみればわかるところ。
ちょっと戻って、もう一度、少しずつ歩きながら探すことにした。ないない・・・ふと上をみると、左写真の説明板が目に入った。民家の電柱横にあった。
なんや!こんなところに

でも見つかってよかった
うっかりすると見逃してしまうところだった。

別に探し出すほどのことでもないのだが、歩いているとどうしてもこだわりが出てきて、こういうことで意外と時間がかかってしまう。




ほっとした。
次はすぐ近くの鰻やを右に入り長福寺へ向かう。
ここには悲話が残されている。


赤坂の長者の娘、力珠が愛し合っていた三河守大江定基が任期を終えて帰京することになり、別れを悲しんだ力珠は舌を噛み切って死んだ。定基はその死を悲しみ七日抱き続け、仕方なく埋葬した。力珠の魂は、愛執の念から石になりこの寺に残ったという。


元の道へ戻り100メートルほどすすむと右に大きなクスの木が見えてくる。
関川神社だ。ここには芭蕉の句碑があるが、ずっとその前にたたずむ二人ずれがいて写真を撮りそこなった


     「夏の月御油よりいでて赤坂や」

資料を見ながら句碑の前でさかんに話していたが、時々、こういう人に出会う。そこを目当てに勉強をしてきているのだろうから横でうろうろしていると邪魔になってはいかん・・・
けど、気を利かせてほしいとも思う。






ゆるやかにカーブしながら古い通りをすすむ。

人影はなく、たまに車が通過するだけの静かな赤坂の通り、このあたりは、かっては飯盛り女の姿がたくさんみられた賑やかな通りだったにちがいないのに・・・



古い建物になにやら賑やかな飾りがしてあるぞ

なんだろう、どうやら店らしいが・・・食事どころだ




時間は11時51分。
あー入って食べたい、コーヒーも飲みたい。朝、6時半に新大阪駅でサンドイッチを食べただけだ。
でも、名鉄名古屋駅のコンビニでおにぎりを買っているので無駄にはできないし・・がまん!
わかっておれば買わなかったのに・・・
とぶつぶつ言いながら写真だけ撮って通過。









←その店は手づくりの店 あいりん 食事処。








天王川をわたって少し進むと見えてきた!
松並木だ!あっ、松並木が見えてきた!
御油だ!
やっほー・・・いそげ。



   【35-御油宿】 天保4年
    人 口   1,298人
    家 数    316軒
    旅 籠     62軒
    本 陣      2軒
    脇本陣      0軒
御油の松並木は、昭和19,年に国の天然記念物に指定されており東海道随一の松並木と言われている。
樹齢300年以上の松が359本、600メートルも続いている。そして一本一本に番号札がつけられている。実は、300年の樹齢の松は少なくて、その後、植え替えられた松が多いのだそうだ。これまでの藤川、知立の松並木も立派だったが、御油のうっそうとした松並木の雰囲気は街道そのもので時代劇のシーンを思い出す。
昔は、ここを大名行列が続いたんだろう・・・篤姫も籠に乗ってここを通ったのだろうか?その道をひとりで歩いて行く・・・ふーっと息を吸って、スーっとはいて、さあ、堂々とすすもう。カッコよく歩こう!



番号札がつけられている。きちんと保存をしているのだろう。

古い切り株、新しい切り株、寿命がきて引退する松に代わって新しい松が植えられていく。
ただ、戦況著しく不利な19年にここが天然記念物に指定されたということがどうしてもわからない。
二度とここを通ることもあるまいと思うと、何度も振り返ってわかれを惜しんだ。
←左の公園で昼食。天然記念物の御油の松並木のそばで昼食のおにぎりを食べるとは思いもしなかったこと、気分がいい。12時1分から17分まで昼食と休憩。

その間にさっき出会った団体のおばちゃんたちがきた。
困ったな
、あの人たちに先に行かれると見物場所では動かないからな。と勝手なことを思いながら、とにかくすすむことにした。

公園の入口に
「弥次郎兵衛、喜多八も歩いた御油の松並木」という立て看板が立っていた。説明は以下の通り

この御油の松並木は江戸時代後期の十返舎一九の著作「東海道中膝栗毛」の主人公、弥次郎兵衛、喜多八も歩いた街道です。お伊勢参りに行く途中、このあたりで弥次郎兵衛は失態を演じました。陽も落ちかけた頃、弥次郎兵衛は御油の茶店の婆さんが、悪い狐が出て旅人を化かすので「此の宿に泊まらしゃりませ」と言うのも聞かず、先に行った喜多八を追いかける。松の鬱蒼と繁ったこのあたりで本物の喜多八に追いつく。茶店の婆さんが言った狐の話をすっかり信じて、喜多八を狐と思い、突き倒し縛り上げてしまう。そして追ったてながら赤坂の宿に向かう。・・・こんな滑稽なことが生まれたところです。
明治のはじめ頃までの御油の松並木の両側は竹藪が延々と続く昼なお暗い所でした。この付近の山々には狐狸が棲息し、夜な夜な餌を求めて、田畑や街道へ出没し、作物を荒らしたりして人々わ驚かせました。日没とともにまっ暗な闇が街道を包み、薄気味悪い松並木を通るには、とても度胸がいったとのことです。 御油松並木愛護会

←弥次喜多茶屋

↓松並木の東の入口までくると「天然記念物・御油ノ松並木」の大きな碑と説明板が立っていたが、あのグループが取り巻くようにしていたので長居は無用、先を急ぐ。

 向かい側に十王堂

十王とは、冥界にあって死者の罪業を裁判する十人の王のこと。仏教では、死者は冥界で順次十人の王の裁判を受けて次に生まれてくるところが定まるとされている。この考えは平安後期に日本に伝わり、鎌倉時代に全国に広まったという。説明板より
松並木を出るとそこから御油の通りが始まる。
赤坂と同じように人影はまったくない。

ここで二人ずれの男性が後に続いてきた。
盛んに話し合っていたのでかなり下調べをしてきた人達なんだろう。男性の二人ずれはめずらしい。大体ひとりなんだが。

後を歩くと写真がと似にくくなるのでここは急ぎ足でいっきに先へすすむ
通りから右へ入ると東林寺が見えてくる。

ここには五人の飯盛女の墓があることで知られている。
下のイチビキ、元旅籠大津屋の話で触れているが、大津屋で働いていた飯盛り女が世をはかなんで死んでいった五人を弔っている。

徳川家康も二度立ち寄っているという。

室町時代中頃に創建されたお寺だそうだ。




通りへ戻ってすこしすすむと白壁の大きな建物が見えてきた。イチビキ醤油工場だ。

みそやしょうゆをつくっている会社だが、かっては大津屋という大きな旅籠屋だったらしい。
ここで働いていた五人の飯盛り女が池に飛び込んで死
んだのをここの旅籠屋の主人が弔って東林寺に墓をつくったという。女を商売の道具のように使う仕事はやめるということで旅籠から、みそ、醤油屋にかわったのだとか。


イチビキ醤油工場のななめ向かいに小さな本陣跡の碑と説明板があり、はっきりと読めない石碑がひっそりと立っている。


この本陣跡は、御油の二軒の本陣のうち、鈴木半左衛門が営んでいた本陣跡だそうだ。


昔、ここらも飯盛り女が出入りして華やか通りだったはずだか、いまは、その面影もない。

下右の写真の左下に本陣の碑が立っている。↓

茶店「こくや」
むかしの屋号のまま営業をしている。












その向かいに古い建物と醤油樽の看板がめずらしい「いがや」はいまも営業をしている。

かろうじて昔の面影にふれたが、他は、まったく、ここが東海道の宿場だったというものは残っていない。








せっかくなのでコースから少し外れるが御油の松並木資料館によることにした。

12時35分に着いたら昼の休憩中ということでしまっていた。人影も見えなかったので残念だが、諦めて次へすすむことにした。

玄関わき・・・写真真ん中やや右奥に、昔の松並木の大きな切り株が展示してあった。




資料館の横を流れている音羽川の橋元には、広重の絵が何種類か銅盤に書き込まれている。

           ↓

    のどかな昼の風景なんだろう

    夜は一変して「赤い狐」が・・
通りを逆に戻り左へ入って行くと人馬継立所跡(問屋場)がある。

人馬継立所跡(問屋場)とは

江戸時代の宿場では、公用の荷物や人の継ぎ送りに必要な人足や馬を備え、大名や幕府の役人などに人馬を提供し、輸送にあたらせていた所のことだ。








その隣に御油「旅人留女」の絵の看板がある。
旅人を女たちが引き留めようとしている当時の風景を描いたものだろう。御油を象徴するような光景と思われる。

弥次さん、喜多さんもこんな目にあったのやら?

一度でいいから、そんな体験のできるイベントでもしたら町おこし?御油おこしになるかもしれないなあ・・と思ったが、はて?



公園の一角、桜の木の下に高札場跡
★高札とは・・・代官所が町民や旅人に諸規則を知らせるために設置した掲示板。人々の目につきやすいところに設置されたはずなので、御油ではこのあたりが宿場の中心だったと思われる。

ここで水補給休憩。
12時53分、予定の時間内で進んでいるので時間に修正の必要はない。ただ、気温が上がってきたので暑い。

古い家の続く道をすすむ、ここでも人の姿は見えなくて、自分の足音だけがする・・・
きょろきょろ建物を見たり、写真を撮るのでこういうところを歩くのは、気を使うのだ。
こんなところに住んでいる人、どんな生活をしているのだろうか・・・・退屈なかなあ、 静かでのんびりできていのかなあ
長生きできるか、ひまなときはどうするのか・・・
どこかから自分を見ているのかなあ・・・そんな視線も感じながらすすむ、都会で生活をしている者には見当もつかない。
音羽川にかかる御油橋を渡る。五井橋とも書くらしい。
歩道がないので車に注意しながら急いで渡る。両岸は桜並木になっているので桜の時期はきれいだろう
しずかなところでとても環境のよいところだ

しばらくすすむと斜めに交差する交差点に出る。
交差点角に常夜灯と道標とC木製の姫街道(本坂越とも言われている)の道標が立っている。
ここは旧東海道と姫街道との追分だ。

@常夜灯には、「左ほうらいじ道」と彫られている。
A道標には「秋葉三尺坊大権現道」と彫られている。
B他に「砥鹿神社道」の碑もある。




姫街道は東海道のバイパス的な道で、浜松宿から新居の関所をさけた浜名湖北岸を迂回し、ここ御油に至っている。。

姫街道には、いろいろ説があるが、新居宿での女性の調べがきつかったので遠回りをした女性が多かったらしく姫街道と言ったとか・・・。




豊川市
 豊川稲荷のこんこん狐様がシンボルか

御油の一里塚跡は不明ということで
さらにすすむと大社神社の前に行く、ここをさらにすむ。
静かな通りが続く 新栄町二丁目交差点を過ぎると
明るい雰囲気の通りになる

このあたりの中心地なのだろうか、商店や金融機関やが続く
あ、警察が移転と書いてある・・ぞ。・

古い秋葉常夜灯がたっている。

説明板によると

秋葉三尺坊大権現はその昔し越後国蔵山より白狐に乗って遠州の秋葉山に飛来したといわれ火防の零験あらたかと信ぜられ、江戸時代朝廷、大名、庶民に至るまで、奥深い信仰をあつめられ、国府村民等も村内を火難より守るため秋葉山常夜燈を造りました。平成十八年役員一同
  寛政十二庚申(1800)造上


地元の人たちが保存に力を入れているのだろう、常夜灯にこんな柵をつけて、手書きの説明板を立てているのがうれしい。ここまだたくさんの常夜灯を見てきたけれど、めずらしいなあ・・

この常夜灯、幸せや!

一号線に合流する。静かな街道からいきなり車の通行の激しい一号線に出るとやっぱりうるさい。すこしすすんで地下道を通り向かい側にわたる、写真で正面の大きな建物の手前だ。

ここで水補給の休憩。とにかく、少しずつ、数多く、水だけは補給しないと、かなり汗もかいている。

そのまま名鉄の踏切をめざしてすすむ
途中で向こうから久しぶりに人が来たのでこれ幸いとおなじみの通行証明書代わりの写真の撮影を頼んだ。

毎回毎回、誰かにお願いして続けているので、これだけは、最後まで続けたい。お願いできそうな人がいたら遠慮しないで早く撮ってもらうこと。


60歳くらいの男性、あまりデジカメにさわったことがないみたいだが・・・なんとか撮ってもらえた
撮った写真が斜めになっていたのでこれは修正した後のものだ。

首にタオルは、自分の癖でハンカチは使わない。

それにしても人がいない土曜日の午後。
13時37分 ここらでは昼寝の時間かな??
まさか!!
名鉄の踏切へ、ここは、豊川へ行く豊川線と豊橋に行く本線とがわかれるところで電車がどんどんくる。見ているだけで楽しい、しばし電車見物。ロマンスカーこないかなあ。子ウォーカー君に写真、送ってあげたいけど。
踏切を渡ると景色は一変して農道になる。

風にのってくる草のにおいがなんともいえないなつかしさ・・・
この風景は大好き、田舎育ちにはなつかしいばかりだ。
周囲の豊かな自然の空気を吸いながらまた、風がさわやかなこと、青空の下、とても気持ちがいい。







鯉のぼりも元気よく泳いでいる、ちょぃと休憩。

こんな写真を撮っていたら下の田んぼで仕事をしていたお父さんがじっとこっちを見ている・・

ここらではみかけないあやしいやつだあー
と思われているのだろうか

とにかく先を急ごう!

ふたたび名鉄の踏切を渡って
急カーブの道をすすむと200メートルで号線←浜松・名古屋→に合流すると標識が出ているが・・・写真左の砂利道へすすむ。
農道なのか、じやり道をしばらくすすむが暑い。

おいおい、この道どこまで行くの
まさか行き止まりということないやろな。
間違ってないやろな

こんなところで間違っていたら大変!


遠くに名鉄が走っている、のどかな田舎の風景。
きれいに整地された田んぼ、なにを植えるのだろうか?

かなり強い風が吹いていて、鯉のぼりの尻尾が顔をなでる
なんでこんなとこ歩いているのやろ・・・
人がみたら滑稽に見えるかなあ。


やっと本線?に行きついてほっとした。
間違っていなかった。
急に交通の激しい一号線、白鳥五丁目交差点を渡りそのまますすむ。
このあたり、大きな工場や倉庫が続く、ダンプカーや大型車とすれ違う、一番いやな道だ


暑いので木陰で休憩。おやつの羊羹を食べる。
羊羹?理屈は別にしてただ好きなだけ。
、水も十分に補給、心拍数も図る。
この時期とはいえ熱中症は普段から注意を。
そうだ
日焼け止めぬろう
もう遅いで。

ひとりごといいながら、日焼け止め、去年の残りだ、はたして効果はあるか 消費期限は過ぎているかもしれないが
去年、調合薬局に薬もらいに行ったとき、店のおばちゃんにうまいこと言われて買わされた日焼け止めだ。

しばらくすすむと行き止まりになり左へ一号線まで行くと京次西の交差点。ここをすぎ、また、右へ入り、一筋目を左に。ここから約1キロ、山桃の交差点を渡り、西古瀬川をすぎ、生コンや工場の続く道をひたすらすすむ。白川をわたり、稲荷大明神入口を過ぎると豊川市から豊橋市に入る。写真左は、来た道を振り返ったところ。
近くのコンビニで缶コーヒーとパームクーヘンを買い込み店先で休憩。

なんでパームクーヘン?理屈は別として、ただ、好きなだけ。

ここで豊川市とおわかれ、歩かせてくれてありがとう豊川市。
ここから豊橋市。
14時52分だ。
予定が14時50分だったのでぴたり。

ここまでは順調。
コースは後半、この時間帯が、一番集中力を欠くときなので、いつものように。



ゆっくり歩行!

安全歩行!

さあ、明るく、楽しく、元気よく、軽やかに行こう!
と口に出して自分に言い聞かせる。

佐保川にかかる佐保橋をわたる。


佐保川を越えて、速須佐之男神社前を通りしばらくすすむと
山本太鼓店↑
のぞいてみるとりっぱな太鼓がたくさんあるある。


←その店の手前に伊奈の一里塚の碑がある。
上の右写真のポール右に一里塚の碑が見えている。
ここは簡単に見つかってよかった。

五十三次は、こういう碑がいたるところにあるが、それを発見するのに手間取るので普通の歩くだけのウォーキングと違って時間がかかるのだ。宝探しみたいなもんかなあ・・・





さらに5分ほど歩くと右側のテニスコートと道路の間のわずかなスペースに石碑が二つ並んで鉄柵で囲まれていた。このあたりは、かって、立場でにぎわったところで、伊奈村立場と呼ばれていたところだ。
このあたりは「良香散」という薬を売る店があり「良香散立場跡」ともいわれたそうだ。
伊奈村立場茶屋 加藤家跡 と碑にかかれている。
二つの石碑は、芭蕉の句碑だ。

明治天皇は、ここ加藤家で休憩をされたそうだ。
さらにまっすぐにすすみ、明光寺を過ぎ、宿西交差点過ぎ一本松のあたりまでくると道はひだりへカーブしてすすみJR飯田線の踏切を越えて行く。


↓←才の木交差点と↓兎足(うたり)神社
才の木南交差点を渡り少しすすむと工場の横と道路の間に数本の松の木の間に文字のよくみえない石碑が立っている。


子だが橋

子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。およそ一千年前、菟足(うたり)神社には、人身御供えがあり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があったと伝えられている。


ある年のこと、贄狩りに奉仕する平井村人の前を若い女性が故郷の祭礼と父母に会う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。みればわが子である。

ああ、いかにすべきか・・・と苦しんだが
子だが止むを得ん・・・と、遂に生贄にしてしまった。
それからこの橋のことを、子だが橋と呼ぶようになったということである。

現在、菟足神社では、十二羽の雀を贄に替えておこなわれている。


     小坂井町教育委員会


そのままニチレイの建物にそってすすみ、善光寺川を渡りまっすぐにすすむ。
、突きあたりは豊川放水路にかかる高橋だが、この通り、歩道はない、車の往来は結構あるので危ない。
終盤になってこんなコースが待ち受けているとはしらなかった。
他にすすむ道がないので仕方がないが、命が縮む思い。

ここは、とても、ゆっくりとはいかない。
とにかく早く、早く!
必至、必死で歩く。

こちらも怖いが、車はもっと怖いにちがいない。


豊川放水路と高橋

やっと橋についたと思ったら、なんとなんと、橋にも歩道はない。これはまずい。しかし、資料では、まちがいなくこの橋が東海道のルートになっている。ということは、これまで東海道五十三次を歩いてここに来た人は、みんな、この橋を歩いて渡ったのだ。

怖いというより、無謀に近い。また、この橋が長い。

とにかく、必死で歩く・・・


そして、橋をわたり、下って行くと豊橋魚市場の前に出た。
早朝の仕事場だからいまは、ひっそりとして、だれもいない。

入口のところで水休憩。
デジカメのバッテリーが切れたのでスペアと交換。


15時48分。




市場に関係するような店の前を通りまっすぐな道がつづく・・・鹿菅北の交差点まできた。
だんだんと陽が傾き影が長くなってきた。

ここからゴールの吉田本陣までの距離は4キロほどか。
豊橋市内では時間も必要だろうから、ここらは、スピードアップしてすすもう。

時間的には、問題なく、順調にきているので安心。



鹿菅北の交差点を過ぎ、鹿管橋を過ぎると左側のどうろ脇に史跡境界の碑があり、瓜郷遺跡への案内表示があった。

さて、どうするか・・・

パスするか回り道して訪ねてみるか・・・

二度とこないのだから寄ってみることにした。
瓜郷遺跡

弥生時代中期から後期を中心とした遺跡。
最下層からは櫛描き文の縄文臺石斧などの石器類、中層からは弥生後期を代表する櫛描き直線文や波状文の壺などが出土した。国指定の史跡になっている。


中にはいることはできなかったが、きれいに管理されている遺跡公園になっている。
また、元の道に戻って元気よく

16時5分

しばらくすすむと街道の雰囲気のする古い家並みが見えてきた。連子格子の低い二階屋根の旧家は、江戸時代は燈油を商っていたが、現在は、油脂、大ズとか、肥料等の販売を営んでいるそうだ。
ヤマさん味噌醤油の前をゆるやかにカーブしながら下地一里塚を目指してすすむ

下地一里塚跡がなかなかみつからなかった。手持ちの地図が間違っていたのだが、何度も何度も行ったり戻ったり・・・ここで少し時間ロスが発生。

もう、あきらめようかと思いながら、やっぱり引き返してさがしてしまう・・・
いつものことだが。

これを江戸まで繰り返して行くのだろう。

下地河川公園という豊川の堤防にそって作られている公園に入ってみると川に向かって休憩所があったのでしばらくベンチに座って豊川の流れをながめていた。写真右は上流方向へ、豊橋市内とこれから渡る豊橋が見える。下↓下流。

公園の向かい側に芭蕉の句碑があるという聖眼寺へ。
ここの境内にある、芭蕉の句碑

  「ごを焼いて手拭いあぶる寒さ哉」

は松葉塚と呼ばれている。「ご」とは、松の枯れ葉ののこと。


聖眼寺前では、年配の男性から"定年後のお楽しみですか"と話しかけられた。一番いやな話だが、とても気さくな人で豊橋の話をしてくれた。写真も気軽に撮ってくれた。

   芭蕉の句碑↓松葉塚
そのまますすみ、とよばし北交差点に行く、ここを右折すると豊川にかかると豊橋だ。「とよはし交差点」ではなく「とよばし・・・」、渡る川が「豊川→とよがわ」、橋は「豊橋→とよばし」と濁って読むことが橋にかかれた「かな」でわかった。それならなんで「とよばし市」にしないんだろう?まあ、よそのこと、よけいなことだけど・・・
豊橋は、かって吉田橋といわれ、幕府直轄の五大橋のひとつ、当時は現在の橋の70メートル下流にかかっていたらしい。
左の高い建物が市役所のはずだ。そしてその左端の緑が豊橋城跡の豊橋公園だと思う。ここもこれから訪ねてみる。まず、橋を渡って左方向へすすむ。
橋を渡ったところに古い説明板があった。

船町と高札場跡
について。

このあたりは船町、かって三河最大の湊だったそうだ。吉田藩は豊川船運の終点として、さらに伊勢、江戸への起点としてここは大事な湊、渡船場だったという。三河と信濃を結ぶ物資輸送の手段として重要な役割も果たしていた。






そのまますすみ最初の交差点を左折すると「健康の道G」というウォーキングコースだろうか標識が立てられている。
豊川を渡り豊橋市の吉田宿に入ると、道標がきちんと整備されていて歩きやすく豊橋市が旧東海道の保存に熱心であることがとてもよくわかる。


健康の道 距離が表示してある
この標識はあちこちで見かけた。市をあげて健康宣言をしてコースを設定しているのだろう。
さらにすすむと神明社という神社と湊町公園の前の道に「松尾芭蕉吉田の宿の旅籠記」という石碑が立っていた。
 「寒けれど二人旅寝ぞたのもしき」

さらにすすみ次の交差点を右折しすすむと最初の交差点の右側に下記の吉田宿西惣門跡のモニュメントがつくられていた。

ここが吉田宿の西の入口だったところだる



西惣門跡↓ 

ここは吉田宿の西の入口で当時は門番が立っていたところ。左側に番所があったらしい。
   【34-吉田宿】 天保4年

     人 口   5,277人
     家 数   1,293軒
     旅 籠      65軒
     本 陣      2軒
     脇本陣      1軒

吉田宿は、かっては今橋という。三河随一の城下町として栄え、宿場町の性格をもった札木町には、問屋・本陣・脇本陣などが集中していたが、戦火で往時の町並みは失われた。
西惣門のある伝馬通りを上伝馬通りへすすみ最初の交差点を左折すると吉田本陣跡へすすむ最後のコースになる。

豊橋は歩道も広くて清潔で歩きやすい。









迷うこともなく吉田本陣跡もすぐに発見できた。
有名な鰻やさん(丸よ)の店先にきれいな碑がたてられていた。17時7分。予定より23分も早く到着。
ほっとした。

これなら吉田公園の吉田城跡にも行かれる、ホテルにチェックインする前にちょいと行ってこよう。


実は、ホテルの前を素通りしていたことが後になってわかる。

吉田本陣跡。こんなにきれいに碑がたっているのはここが初めて。
本陣前にある碑      本陣の道路真向かいにある脇本陣跡の碑
札木交差点・・・本陣の前をそのまま進むと、すぐ近くにあるのがこの交差点。市電の停留所もある札木交差点、この通りが吉田宿の中心地だったらしい。
交差点を左に、市役所の高い建物が見えるので公園はその向こうらしいから近い。
ここは路面電車が走っており電車ファンにとってはこれは楽しい豊橋、時間も予定通りで初日は文句なしのいい一日だ。満足◎。






←公会堂と時習館址・・・豊橋市公会堂の前庭に建つ藩校「時習館址」の石碑。宝暦2年(1752)の創設という古い歴史を誇っている。

オプションで訪れた吉田城跡公園は規模と言い、雰囲気と言いすばらしい公園。

吉田城址の隅櫓。吉田城は、永正2年に牧野古白が築城し今橋城と呼ばれていた。東三河の要衝として今川、武田、徳川ら戦国武将の攻防を経て、天正18年(1590)池田輝政が入り城地の拡張が行われた。←本丸西北隅の櫓は昭和29年に復元された。
待ちに待ったマイフレンドのヒデさんとの対面となった。ホテルにわざわざ訪ねて下さった。ご婦人が同伴だったので驚いたがSNSに登録をされている静岡県のウォーキング仲間のりんごさんだと紹介されて二度びっくり。

ヒデさんに、ぜひ、案内したいと連れられていかれた店にまた驚いた。豊橋でひとりで食事するなら"ここだ"と決めて、ヒデさんに会う前にちゃんと写真まで撮っていた店だったからだ。

店の名は「きく宗」、東海道名物の「菜飯田楽」を食べさせてくれる店だが実は、滋賀県の日川でも菜飯田楽が旅の人の名物と聞いていたので吉田宿でそれを食べることになったのだからラッキーという他ない。菜っぱ(大根の葉)で炊いたご飯と豆腐の田楽だけのシンプルな料理だが、これが人気メニュー、この店は老舗で、いつも込んでいてなかなか入れないということだ。行った時間が早かったのがよかった。3人で食事をしながら話が弾んだ。いい出会いだった

ホテルに戻って、休憩がてらテレビドラマをみて二日目の資料の下調べとコースと時間配分をしていたら深夜1時半あわてて床につく。明日、いや、もう今日だ、新居宿まで歩く。いよいよ静岡県だ。 29,800歩  20.8キロ