のんびりゆっくり 東海道シリーズ-14
2008.07.27 新居→舞坂→浜松

東海道五十三次ひとり歩きシリーズM「新居宿」→「舞坂宿」→「浜松宿」、N「浜松宿」→「見付宿」を猛暑の中一泊二日のスケジュールで歩いてきた。    2008.7.27-7.28
●初日7月27日(日)

コースは 「新居宿」→「舞坂宿」→「浜松宿」

新大阪発6時8分の新幹線HIKARIで浜松へ

浜松着7時46分  東海道線乗換
前回ゴールの新居宿のある新居駅へ
浜松発7時55分→新居着8時12分

★文中「舞阪」と「舞坂」の二つ表示をしているが、地図、資料等で確認した範囲では「坂」は「舞坂宿」に限り使っている。
70日振りに新居駅前に立つ、なつかしい!
もう一度、バックして近い新居関所を訪ねたい!という思いを振り切って、
駅前の横断歩道を渡り公園へ行く。ここは遠州新居手筒花火のモニュメントにした噴水広場だ。
ここでスタートの準備。地図と資料を取り出し、初めて
ひさしのある帽子をかぶって気持ちを高める。これからすすむ浜松の予想最高気温は34度、いかに、暑さに対応した歩き方をするかが完歩の決め手自分への教訓としてこれだけは守って歩くぞ。
○ひんぱんに脈拍数のチャックをする。130が上限。120までは歩くが125過ぎると注意信号、必ず休憩。
○早めの水補給を行う
○きちんと呼吸をする
○気温が上がってくると首筋をふせぐアイスメッとの着用
○着替えをする
さあ、スタート、8時25分!
快晴、すでに真夏の太陽が照りつけている。
やっぱりこちらも暑い!
道路にはめ込まれた新居宿。ここは新居町。
国道1号線を浜松方面をめざす。
日本橋まで274キロの道路標識。



さすがに海辺の町、到る所に釣り具、エサを売る店が目立つ。こちらは浜名湖と遠州灘と両方が釣り場になるのだろうか・・・釣り人には絶好の環境、なにしろ湖と海とだ。
国道1号線に沿って歩くと右に浜名湖が見えてくる船の姿が見えたので海側へ下りて行くと漁船がたくさん停泊している。ここはまだ浜名湖なのか・・内海・・・漁港らしい。もう、このあたりまで来ると汗が噴き出る、今日の行く手は覚悟しないと。

はるか右前方に浜名バイパスと浜名大橋が見える。
あの高い部分が浜名湖と遠州灘とがつながっている今切だろう。
このあたりこぎれいな民宿が目立つ。
左側にはJR東海道線と新幹線の鉄橋があり新幹線が頻繁に通る。いつもはあの新幹線から眺めるところを今日は新幹線を眺めるほうへ。手前が東海道線の鉄橋。西浜名橋の上からの眺めはあきない。
おっ、うなぎ!今日の楽しみの一つはなんたって浜松のうなぎ、できれば昼に食べたい、でも、いま、ここで食べるわけにはいかないぞ!

浜名橋を渡り弁天島に入る。ここも民宿や高級料理店がつづく。
しばらく歩くと中浜名橋にきた。

ここからが浜松市だ。西区となっている、ということは舞阪は舞阪町ではなく浜松市なんだな。合併したのかな?
かって浜名湖は対岸と陸つづきで淡水湖だった。明応7年(1498年)の地震で陸地が切れて外海とつながりその後も地震や津波に見舞われ宝永4年(1707年)の津波でその間が1里にも広がったという。以降、今切の渡しと言って水上の1里を渡船で渡っていた。朱の大鳥居が見事に映える。自分のふるさと世界遺産宮島の大鳥居によく似ているな。
弁天島の海水客でにぎわう海浜公園の海岸を歩く、こんにな暑い日にリュックを背負ってなにを?という目でか、湖岸の休憩所にいる人がこちらを見ている。
ここは潮干狩りが盛んなところらしい。たぶん、向こうに見える浜地がそうなんだろう。そこに行く乗船場がある。いいなあ。

その先に浜名バイパスと浜名大橋がよく見える
浜名大橋の下が浜名湖と外洋(遠州灘)との出入り口、今切だ。
弁天島から弁天橋を渡って舞阪へ、最初に出会う灯明台、いよいよ「舞坂宿」だ。舞坂宿は、浜名湖を渡る船渡し場として栄えた宿だ。
今も舞坂宿渡船場跡があり、渡船場までの雁木といわれる敷き詰められた石段が残っている、北雁木を下りてみた。
下の写真二枚-北雁木・・・ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦3年(1657年)から寛文元年(1661年)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和28年の台風で石垣が崩れたため積みなおしたものです。

雁木とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。
舞坂宿には3ケ所の船着場がありましたが、一番南側は主に荷物の積み下ろしをした渡荷場。真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれています。
この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約10メートル)の石畳が水際まで敷きつめられています。
舞阪町教育委員会説明板より
雁木の手前、道路左の石積みの上に那須田又七顕彰碑がある。那須田又七は舞坂宿の名主兼問屋。海苔養殖の基盤をつくり宿の復興に尽力した人らしい。のちに苗字帯刀を許されたという。
安政5年(1858年)、その業績わ永く伝えるため、顕彰碑が建立されたそうだ。


地元にとっては恩人というべき人なのだろう。
もしかしたら海苔養殖の元祖かもしれない。

通りをすすむと立派な道標が目についてきた。舞坂宿の見どころが方角で示されている

立派な常夜灯が建っている。西町の常夜燈だ。 
舞阪には往還道路沿いに三つの常夜灯があるが、ここは
正面が両皇太宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王。南面が文化十年二月吉日、願主西町中、と彫られておりこの常夜灯は文化十年に建立されたことが分かる。
舞坂宿では文化六年(1809年)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀わしている。
当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。
舞阪町教育委員会説明板より
上の標識で指月院への道を探していると60歳くらいの男性が声をかけてきた。指月院なら案内をするという、おまけにこの地域の解説までしてくれた。露地をまがりながらすすむ。これはなかなかわからないところだ。ここまで連れてきてくれて写真まで撮ってくれた。猛烈な暑さで自分もタオルなしではおれなかったが、その男性もいっぱいの汗をかいていた。ありがとう。こんな人がいるから知らないところも安心して歩けるのだうれしい出会いだった。
指月院と観音堂、正徳2年(1712年)に龍雲和尚により建立された。明治の終わり頃廃寺になったが、昭和14年、地元の人たちによりもとの境内の一隅に小堂が建てられ、十一面観世音や本尊を四国から迎えた金毘羅大権現などがまつられている。
 【30-舞坂宿】 
  人  口- 2,475人 
  家 数-  541軒
  本  陣-     1軒  
  脇本陣
-     2軒 
  旅籠屋
-    28軒


←舞坂宿本陣跡
この地は東海道舞坂宿宮崎伝左衛門本陣跡で江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中宿泊・休憩したところです。
舞阪町教育委員会  と彫られている。

海のすぐそばにある本陣、宿場の規模としては小さかったが、浜名湖と遠州灘の魚業で得られる利益で宿場運営は他の宿場に比べると恵まれていたらしい。


舞坂宿の中心だった通りを向かい合うように本陣跡と脇本陣跡資料館があり資料館へ寄ってみた。

一時は町役場として使われていたという脇本陣跡は資料館として平成9年に復元された。
貴重な建物を保存しようという地元の熱意で、
一部二階、間口は狭いが奥行きの長い脇本陣の姿が本格的に再現されていて、当時の脇本陣のありさまがよくわかるなかなか立派なものだ。
ここの受付をしていたご婦人がとても明るくて親切で舞坂のことを熱心に詳しく説明してくれた。地元の人がボランティアで交替で受付をしているそうで入館料なしの無料、驚いた。驚いたのは、それだけではない。このご婦人に自分が作成しているHPのアドレスを教えたいが正確に覚えていなかったので帰り次第お知らせをすると約束して携帯アドレスを交換したのだが途中でメールがおっかけてきた。
暑い中、お疲れ様です。先程の脇本陣のおばさんです。今、どのあたりを歩いているでしょうか?東海道のイベント記念グッズをお渡ししたいので、もしも、このメールに気がついたらお返事ください
気がついたのが天竜川を渡って河川敷で休憩中に携帯を見たとき、遅すぎた・・・すぐお詫びのメールを入れたら返事が来た
残念です、もしと思い、主人と車で追いかけて、、。これも出会いです。きをつけて旅を続けてください
ありがとうございます。k.kおばさん! 今日もうれしい出会い。こんなうれしい出会いがあるのも東海道!
舞坂宿の渡船場、本雁木跡
江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり舞阪側の渡船場を雁木といった。
ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、南北20間の石畳が往還り海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、夕方の最終船は午後4時であった。

舞阪町教育委員会説明板より

雁木を下りてみると確かに石積みが続いている、港になっており向いに舞阪魚市場が見える。
仲町の常夜灯文化6年(1809年)に舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をしました。火防の山、秋葉信の高まりとともに仲町の願いにより4年後の文化10年5月吉日にこの常夜灯が建立されました
両皇太神宮、秋葉大権現、津嶋牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2.7メートルあります。なお、西側の石の祠は、秋葉山をまつってあります。ちなみに、ここ宝珠院は、明治6年(1873年)舞阪町に初めて小学校が開かれたところです。 舞阪町教育委員会 説明板より
舞坂宿の絵が貼ってあった。
今切の渡しだ。

こちらが舞阪、向こうが新居だろう。

東海道を行き交うことの大変さどんなものだったのやら・・

おだやかで明るい舞阪の通りは乾物屋や魚屋等海産物の店が多い
しらす干し、たたみいわし、のり、ゆでいか、鰹節・・・

容赦なく照りつける真夏の太陽がうらめしいくらい暑い。
それにしても地震や津波の恐ろしいこの地に大名や有力な人たちが宿泊する本陣や脇本陣を開いたのはなぜかわからない多分、それを上回る景勝の地であったのかもしれない。

舞阪一里塚跡
(江戸から68番目))

新町常夜燈

通りに面して新町の常夜灯があり、その奥のほうに舞阪の一里塚の碑が建てられている。
道の両側に石垣が残っていたが、これは「見付石垣跡」で当時はここに六尺棒をもった役人がいて出入りする人を見張ったらしい。
この石垣は舞坂宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細は明らかではないが、宝永6年(1709年)の古地図には既に存在している。見付は見張り所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒をもった番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。
舞阪町教育委員会説明板より

←舞阪一里塚を過ぎて舞阪新町交差点を渡ると松並木が見えてきた。

←浪小僧の像。むかし、遠州灘の浜では、地引網が行われていました。魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わるとき、波の音がするようになったと伝えられています。    遠州七不思議より

松並木入り口の公園の広場に浪小僧の像がある。↓
「舞坂の松並木」は700メートルで340本の手入れの行き届いた見事な松並木だ、日影にもなって歩くのも助かるこれまで見てきた松並木の中でも保存状態がとてもいい

南側の並木に沿って五十三宿の広重の絵の銅版モニュメント(写真下の右)がつくられ
ている。松並木の間に53次があるのでどこを歩いているかたのしい。北側には十二支の石碑モニュメントがあり、これも楽しませてくれる。
(写真下)真ん中の道を右へ左へ、モニュメント撮影に渡り歩く。これは忙しかった。
  舞阪の松並木と保存。左の松のように各松に番号と、松虫の駆除、白蟻の駆除の印が貼ってある。

何度も休憩を繰り返しながら松並木を楽しみながらすすんだ。
暑さがこたえていたのでこの松並木の陰には救われた
並木の端にきて歩いてきた道を振り返ってみる。
通してくれてありがとう

 見送ってくれてありがとう
 もう一度歩きたいけれど・・・
 ありがとう、ありがとう

 思わず口に出た
 なぜか知らないが涙がほほを伝う
 もう振り向くま
 さようなら
11時24分、ふたたび、日影のない国道1号線をすすむ。
暑い、暑い、きちんと心拍数を測ってきたが120を越えるようになった。要注意!ここで新兵器?アイスメットを濡らして頭にかぶる

多分、これからのコースに日陰はないだろう。
この暑さを、どう、歩いていくか・・・
無理はいかん、急がないで、スロー、スローだ
予定していた時間は若干オーバーしたが
最優先に休憩兼食事処を探そう

どこにでもコンビニがある生活圏にいると
ついつい、歩いておればコンビニくらいと思うが
そのコンビニなどありはしないし
店そのものがないのだ
さすがに心配になってくる。
11時29分、春日神社へ
休憩、水補給。
珍しい、狛犬ならぬ二匹の白鹿が立っている。

道は相変わらず一直線にすすむ。
食事のできる店、ないかなあ・・・

西本徳寺前を通る。中へ入って行くと本堂を改修中だった。


東本徳寺、馬頭観音跡、稲荷神社前をすすむ。

うんうん、そうだ!

じっとしておれば困難にはぶっつからない
でも前にはすすまない!
気温は何度くらいなのか・・・
もう、タオルはぬぐった汗で湿っぽくなった。
同じような単調な景色が続くと集中力が切れるのでこんな時は、小さな声でひとりおしゃべり。


歩こう、歩こう・・・歩こう!

これも常夜灯
これから何カ所かこの常夜灯にお目にかかる。いまでもこうして地域の人たちが大事に管理しているいるのだろ。
古い街道が続く・・・どこまでも続く
この暑さ、まったく人の姿はない、車さえあまり通らない。

真昼の通りなのに、しーんと静まりかえっているのが不思議。あごと鼻が痛い、どうやらアスファルトの照り返しが下から顎に反射しているらしい。こんな経験は初めてだ。

でも、足は、重くもなければ、まったく気にならない。歩くことには問題ないが、ただ、暑さはきつい!
史跡引佐山大慈院本尊観世音
(馬頭観音跡)かって定朝作の観世音を祭る由緒ある寺であったらしいが、今は廃寺となり碑のみ。

12時8分、稲荷神社へありがたい
ここでも小休止、ペッボトルは何本目?

小学校低学年くらいか、なにやら楽しそうに話していた女の子三人が、こちらをじっと見てる。
そりゃ、アイスメットを取り換え中や・・・不思議なのだろう
みかけないおっちゃんだから。
決して変なおっちゃんやないで!



あれ?ここ、さっき通らなかった?

と思うような同じような景色が続く。
まあ、それにしてもいい天気だ。


どこまで続く、この歩き
だれか止めてくれ!
自販機が見つかったので
新しい水を買おうとして
その前に心拍数を図ろうとしたら133
急にポートしてくらくらときた

危ない

自販機に体を預けてじっと・・・
まったく違った景色が見える

多分30秒くらいだろう
すーと落ち着いてきて我に返った
まだ、
ストップ、ストップ
しばし、自販機の横に座り込み。


知らない人が見たらなんと見る
幸か不幸か、この暑さ、人の姿などまったくない
通るのは車ばかりだ。


みろ、あの雲、なめたらあかん!

賞金・・・人影見つけたらひまわりの種上げます。
落ち着いてきたのでアイスメットを濡らしセットして、心拍数が110を切ったのでスタート
すぐ近くにあった愛宕神社の前を過ぎると、にんと電柱に
「軽食手づくりの店 papa」の看板が見えた!

あった、
あった、思わず声に出た!
矢印にそって50メートルくらいか、住宅街の中にある小さな店へ、12時26分。

”あやしい者ではありません、東海道を歩いている者ですが入っていいですか!”と私流のあいさつ。

”いらっしゃいませ、どうぞ、どうぞ!
東海道を歩いている方はよくお出になりますよ”

どうやら東から東海道を歩く人が寄る店らしい
西からの人間は珍しいそうな

”ゆっくりしてください”
やさしいお店のママさんと地元の男性客と三人でしばし仲良し時間を過ごした
すっかり生き返った気分になって午後のスタート
13時26分、ちょうど1時間の休憩はありがたかった

ママさんが見送ってくれた
お気をつけて!
はい、ありがとうございます!
また、人の温かさに触れた。

再び東海道へ戻る
さらにまっすぐにすすむ

気温は何度になっているのやら

休憩した分、ずいぶんと楽になった。

篠原小学校の前を通る、こんな日影がありがたい。
いまにも倒れそうな一本の松がU字型の金属に支えられ保護されている。
あー、この松は、大事にされているんだな
頑張れよ、長生きするんやで!
よし、あの入道雲さんを追って行こう!
高札場跡がみつからない、みつからない
行ったり、戻ったり・・・
もうあきらめては、と思うが悔いを残したくない。
13時54分。
汗が目にしみる 道がゆらゆら揺れる
 それでも 猛暑の道を ひとり行く
一里塚跡、やっと文字も判別しにくい立て看板が垣根の中にあった
あった! 
持っている資料と現場が少しずれていて
わかりにくい、こんなことはいつものことだがこの暑さ、集中力が散漫になって足に負担をかける。行ったり来たり・・・一番疲れる。


14時4分。

あれ?入道雲が・・・
エンテツストアの前にきた
あの中に入って涼をとるか
・・・・・
すぐそこに神社みたいなところが見える
とりあえずそこに行ってみよう。
 

14時7分
神明宮だった。

そこで休憩
 
バス停にいた若い女性にJR高塚駅の確認をしたら丁寧に教えてくれた

立ち去ろうとしたら”気をつけて行ってください”
言ってくれた、あーやさしい娘さんだ
こんなひとことがうれしい、うれしい。

よほど疲れて見えたのか
あるいは元気に見えたのか?

立場本陣跡がみつからない。
地図ではバス停の立場より手前の
はずだが・・100メートルの間を二往復、ない、どうしてもない!あたりは道路工事で歩道がきれいになっているひょっとして取り去られたのかもしれないそれなら探しても無駄。聞こうにも人はまったくいない。とうとう諦めた!
浜松市篠原。道が合流し257号線になる
交通量が一気に激しくなる。
14時48分。
やや暑さがゆるんできた。
もう大丈夫と思うが、こんなときが危ないので
油断するなと自分へ警告を出す。

浜松市高塚町に入ったきた。
JRの高塚駅はまもなくだ。

このあたり、ところどころに黒松が残っている
かっては松並木が続いていたのだろう。


両側に店や会社が目立ってきて町に入ってきた感じ。

暑さもやわらいでも汗の量はまったく減らない。
自分でも自分が汗臭い、臭い!
途中、寄り道してJR高塚駅へ向かうために257号線から右へ
大きく迂回する。
「東海道五十三次勝手応援隊」をつくって応援をしてくれているSNSのSさんと今回、ここまで一緒に歩く計画をしていたが、それが中止になったために彼にせめて駅の写真でも送ってあげたくてコースを外れ駅へ向かった。

迷うことなく高塚駅へ、この駅の写真を待合室から社メールしたら、Sさんから「誰れ?」という返事、わからないらしい。
「探さないで!!」と返信、いたずらする元気があるから大丈夫。
Sさん、ごめんね!
ついでに駅の待合室で休憩。
行程の時間は順調で心配はいらない。
再びコース257号線へ、15時20分
徐々に暑さも引いてきたのか、暑さ慣れしたのか、気にならなくなってきたが、交通量の激しい道が続くので、気を抜くことはできない、事故には遭わないように、集中力を切らさないように。

この通りにある記念碑は、棒状の木に文字がかかれたもので
見つけるのも、読むのもなかなか難しくてゆっくり歩きしかできない。
高塚東バス停を通過、15時32分
こんなに通行量の多いところでも人影はない。

歩道横に堀江領境界石の木標識。左写真堀江領境界石。植込みの中に右写真・従是東浜松領の石墓標当時はここまでが堀江領(いま歩いてきた高塚は堀江領だったらしい)で、これを過ぎると浜松領だったという境界を示す標識。

←少しすすむと高札場跡の木標識

  すぐ隣に熊野神社→


←秋葉常夜灯篭

       諏訪神社→



みたらし池?↓
ここに池があったのだろう。

16時5分、浜松駅まで4キロの標識をみてほっとする
ゴールの「浜松城大手門跡」駅より遠くだし、見どころも多く残っているのでゴールは18時頃になりそう

この時期の18時は明るいので問題なし、今日は宿泊なので早く着く必要もない。
このあたりも、松並木が少しずつ残っている
ガストで冷たいコーヒーを飲んで最後の休憩。
日曜日の午後、家族ずれや若者でいっぱいの店に、へんなおっさんが一人、あまり居心地はよくなかった。


このまますすむと道は左右二手にわかれる地点へ。

16時42分に「二つ御堂」前に行く
道路をはさんで二つ御堂が向かい合って建っている。
進行方向左に北堂。
道路の反対側に南堂がある。


これは奥州平泉の藤原秀衛とその愛妾によって天治4年(1125頃に創建された伝説が残っているものだ。

説明板より

奥州平泉の藤原秀衛と、その愛妾によって、天治4年(
1125年ごろ創建されたと伝えられている。京に出向いている秀衛公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上がる途中、ここで飛脚より秀衛公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提をともらうために、北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。
一方、京の秀衛公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持ちをこめて、南にお堂(薬師如来)を建てたという。

現在の北堂は、昭和30年改築、阿弥陀如来・地蔵菩薩・毘沙門天が、南堂は、昭和12年新築、薬師如来・不動明王・大日如来が祭られている。
毎年12月14日、供養がおこなわれている。

南堂横に明治天皇御野立所記念碑がある。

北堂の横に馬頭観音がある。
宝冠に馬頭をいただき、墳怒の相をした三面はっぴ)の観世音菩薩である。交通運搬、農耕等のため極めて重要であった馬の供養と結合して、江戸時代庶民の信仰を集めた。
ここらあたりから交通量は一段と激しくなってくる浜松市内に入ったきたのだろうか・・・
日差しもなくなり夕方が近づいてきた雰囲気。

左へすすむ。
若林一里塚

塚も木も残っていないがなかなか立派な碑がつくられている。
かっては土手のある松並木が続いていたという。(八丁縄手)

その前を通り堀留川の手前に行くと橋の横に鎧橋の説明板が立てられている。

説明板によると

平安時代末期、戒壇設置のことで比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の兵はこの辺一帯の水田に水を張り、鎧を着て、この橋を守り固めて戦ったので、その後、鎧橋と称したという。
その時の双方の戦死者およそ千人を鎧橋の北側に葬り、千塚または血塚と言ったと伝えられている。


道路の向かいに八丁縄手跡

このあたりは、昔は田畑の続く田園地帯の中を東海道が通っていたらしい。
浜松駅、浜松市役所まで2キロのところへ来た。
もうすぐだ。ゴールは市役所の手前だ。
17時11分。雲が出てきて急に夕暮れが迫ってきた。


あわてることはないのでじっくりと行こう
初日ゴールのめどがついてほっとする。



東海道新幹線のガード下をくぐり、JR東海道線のガードを越すと
すぐ左側の道端に文字も見えなくなった八丁縄手跡の木標識があった。


そのまますすみ菅原町交差点を目指す。


菅原町交差点手前角に行くと
子育て地蔵尊が安置されている。

長年子供に恵まれなかった町民が願をかけたところ子供を授かったといわれる地蔵尊です。戦前は、今はない地蔵堂に集まり7月24日に地蔵盆を盛大に催していました。 標識の説明より

次の交差点を左折するとゆるやかな上り、成子坂へとすすむ。
納豆屋の前に夕顔が咲いてる。

浜納豆の店→
ここの納豆は乾燥をした納豆でネバネバしておらず塩味が効いておいしいとか・・


←文字がまったく消えてしまっている

番所跡、旅籠町交差点角のガードレールの内側にひっそりとうず
もれるようにして小さな図もれているよ石碑が建っている、
なかなか目につかないところだ

旅籠町を通り伝馬町を通り過ぎると浜松の賑やかな町の中へ出
て行く。

さらにすすむと伝馬町交差点へ、このあたりが浜松の繁華街の中心地か・・・大きなビルが続く。
その伝馬町交差点横の西武のショッピングビルの前、地下道の入口横に梅屋本陣跡があった。かっての浜松宿の中心地がいま浜松の中心地になっているんだな。
↓梅屋本陣跡、ここは浜松六本陣のうち、梅屋家の本陣跡で建坪は180坪(約600平方メートル)でした。国学者賀茂真淵は梅屋家の婿養子でした。・・・浜松市説明板より
本陣とは・・大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のため宿場に置かれた旅館を本陣という。
ここで休んでいると豊橋のヒデさんから電話ありホテルに来るというので、ここでのんびりとしていてはいけないと最後の歩きに入る。

  【29-浜松宿】 
   
   ○人 口 5,964人
   ○家 数 1,622軒
   ○本 陣     6軒

   ○脇本陣    0軒 
   ○旅 籠    94軒

伝馬交差点を渡ると川口本陣跡、杉浦本陣跡向かい側に佐藤本陣跡の碑が建てられているがいずれも形として残っている本陣はない。

ひとつひとつを探して行く。
川口本陣跡

ここは浜松六本陣のうち、もっとも新しくできた川口家の本陣跡で、建坪は163坪(約540平方メートル)あったといいます。 浜松市
杉浦本陣跡

ここは浜松六本陣のうち、もっとも古い杉浦家の本陣跡で、建坪がおよそ272坪(約900平方メートル)ありました。 浜松市
佐藤本陣跡

ここは浜松六本陣のうちのひとつ、佐藤家の本陣跡で、建坪がおよそ225坪(約745平方メートル)ありました。 浜松市



高札場跡、この付近の車道中程に、柵で囲い柱を立てて高札を掲げた高札場がありました。城下・宿場の人々に法玲犯罪人の罪状などを周知させるために書かれた木札を高札とか制札といいます。浜松市
今回のゴールは連尺町交差点、下左がその道標。右が連尺交差点にある浜松城大手門跡。
この付近の道路中央部に、浜松城の正門つまり大手門がありました。南面する間口8間(約14.6m)、奥行4間(約7.3m)の瓦葺の建物で、つねに武器を備え、出入りが激しく取り締まられていました。浜松市

 ★18時17分、やっと、無事にゴール!   ★35,576歩  24.9キロ

◎宿泊ホテルはすぐ近く、シャワーで汗を落としてヒデさんを待ち、前回の豊橋と同様にリンゴさんと3人で待望の浜松のウナギを食べに行き楽しいひとときを過ごした。うっかり写真を撮るのを忘れたが、豪華なうなぎ、贅沢なご褒美で明日の活力とした。
◎今日は、ほんとうに暑かった、浜松の最高気温が34.9度。あの昼間の炎天下は何度になっていたのやら・・・文句なしに、よく歩いたと思う。自分がこれまでウォーキングで経験した暑さでは特別だった。昼間に1時間、昼食を兼ねて喫茶店にいた以外は、1日中を高温の外にいたのだから、むしろ無事であったことが不思議なくらい。これも、自分の足がそれを上回るだけの歩力を蓄積していたからだと思う。まだ、それだけ歩ける力があることは自信になった。ほんとうにご苦労さん、ありがとうと足に言ってやりたい。