のんびりゆっくり 東海道シリーズ-15
2008.07.28 浜松→見付

東海道五十三次ひとり歩きシリーズMN回目を猛暑の中、一泊二日で歩た二日目の記録。
●二日日2008年7月28(月)
コースは 
「浜松宿」→「見付宿」(磐田市)


6時起床、6時45分ホテルで朝食を済ませて7時27分ホテルをスタート、すでに日差しはきつくて暑い。今日最大の楽しみは「天竜川」を渡ること。これは、昔からのあこがれだ。暑さは、昨日なみの予報が出ているので、昨日同様、水分補給と心拍数チェックそれに、事故に遭わないように、無理な歩きはしないこと。
7時30分、昨日のゴール地点「浜松城大手門跡」に行き、今日はそこがスタート。そこからコースに入る前にせっかく浜松にきているのだから、まず浜松城へ行くことにした。

浜松で興味深く思ったのは、中心街の交差点がすべて地下道になっていること。地下街があるわけではないので、ただの地下道。車の通行、事故防止にはいいことだろうが、歩く人はいちいち地下道は面倒だなあ。

蓮華寺前を経由して浜松市役所前へ浜松城公園入口の標識にそって緑に包まれた浜松城への道をすすむ、耳をつんざくような蝉しぐれ。本丸跡の一角に徳川家康公の大きな立像がはるか向こうをながめるように・・・天下取りの野望の目か・・・りりしく立っている。

浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築城し、元亀元年(1570)から17年間を城主として在城し家康の出世城といわれた。東西600メートル、南北650メートル、南の東海道に大手門を開いた。家康は、地名を引間から浜松と改め城下町と宿場町を合わて整備し、東海道最大規模の宿場にする下地をつくったが、太平洋戦争で市内のほとんどが焼けてしまい宿場の面影はほとんど残っていない。代々譜代の大名が勤め水野越前守忠邦はよく知られている。

浜松城は、自然石を上下に組み合せて積む野ずら積みと呼ばれる堅箇な作りで古い石垣の特徴を残しており浜松市の史跡に指定されている。確かにただの石を積み上げただけのように見えて崩れないかと思ってしまう。他の城のようなきちんと積み上げられたものとはまったく違う。石の大きい面を内にして外側の隙間に詰石をしただけなので外観は乱雑に見えるが水はけもよく崩れないそうだ。
再びスタートの大手門連尺交差点に戻る。8時18分。
そこからゆりの木通りを宿泊したホテルの前を通って田町交差点を渡り今日のコース、磐田市の見付宿をめざす。月曜日、通勤時間帯、電車のない都市の通勤風景か車の数が多い。

  【29-浜松宿】 
    ○人 口 5,964人
    ○家 数 1,622軒
    ○本 陣     6軒

      ○脇本陣    0軒 
    ○旅 籠    94軒

城でひと汗もふた汗もかいて、タオルで汗ふきしないととても止まらない。
これからしばらくは152号線を歩いて行く。
時21分。遠州鉄道の高架下を通り過ぎる。


道路わきに「夢告地蔵尊」が目に入った。

夢告地蔵尊とは・・・説明板より「元々江戸末期に流行したコレラで亡くなった人々の霊を祀るため建立された地蔵尊。廃物〇釈で深く土中に埋められたものの、町民の夢枕に出て助けを求め、町民たちの手により掘り出されて
お堂に安置逸話が残る地蔵尊です

さらにすすみ新町交差点角に、資料にある浜松宿入口、番所跡を探すがみつからない、二つの資料のバス停の位置が違う。あれ?どうなってるの?その先にある馬込川にかかる馬込橋との間を二度も行き来して探すがわからない。開店準備のお店の人に聞くとこのあたり区画整備されたこと、バス停も移動したそうだ。だから無くなったのかもしれないということだ。
ここは諦めて馬込川の馬込橋を渡る、8時48分。

すぐ「外木戸跡」(馬込橋東)の標識がある。
城に関係あることなのだろうか・・・
ちなみにここは木戸町。


さらにすすみ小さな川にかかる東鎧橋。
鎧橋・・・? この付近は浜松宿の入り口ということで休憩所や木賃宿が多かったらしい、武士が鎧を脱いで一休みという風景がよく見られたので鎧の名が付けられたようだ。鎧橋という名の橋は浜松宿の西の入り口で昨日歩いてきた若林にも架けられていた。それに対して東にあるこの橋を東鎧橋と呼ぶようになったそうだ。


橋を渡ると「馬込一里塚跡」の標識が立っている。昔はこのあたり馬込村だったらしい。
8時49分。



相生町の交差点で向こう側の道を自分が歩いてきた浜松方面に向かって歩いている男性を発見、30代くらいだろうか・・・半ズボン、頭にタオルを巻いて、リュックに手をかけている。リュックの紐が直接肌に接すると暑いし、そこに汗がたまるので気持はよくわかる。前かがみで、いかにも"暑さに喘いでいる姿勢だ"この姿から、この人も東海道を歩いている人なんだろうと思った。こちらには気がつかなかったのかあっという間に去って行った。
がんばれ東海道の同士、かんばれ、負けるな!
向こうからこちらをみたら同じ様子かもしれないが・・・

昨日から初めて会った東海道の人。9時2分。


相生町の交差点を過ぎ、浜松東警察署前を通り、NTTを過ぎ、天神町を過ぎると臨済宗の竜梅禅寺の前を通る。ここでは六道能化地蔵尊というお地蔵さん六体が並ぶめずらしい地蔵尊を見た。享保15年(1730)浜松城主だった松平信祝の娘が東海道中を旅中に亡くなりこの寺に祀られているという。



突然行く手の道をまたぐようにして大きな鳥居が現れた。石碑には、国史現存蒲大神と彫られている。どうやらその参道に当たるらしい・・・行ってみたいがここはエネルギー温存。さようなら蒲大神宮さん。
今度来るからね!来れるはずもないのにそんな約束をしたら罰が当たるぞ、すみません。

このまま300メートルすすむとこの磐田方面へ行く152号線は、天竜川駅方面へ行く312号線とに分かれるらしい。
あこがれの「天竜川」の文字だ。うれしくなる。
←芳川にかかる琵琶橋を越えてすすむ9時23分。 

9時31分。
植松原交差点は地下道を渡る。

浜松宿宿境まで17町
豊田町宿境まで1里8町
交差点から少し入ったところにある子安神社によって見た。

子安神社は。源範頼が娘の安産を願い創建されたといわれている。秋祭りには乳の出がよくなるという甘酒がふるまわれるという。
浜松アリーナまで来た、ここには木陰がたくさんあるのでしばし休憩をとる。

梅干し、水補給、アイスネットの着用。資料の確認。
かなり暑い、時間的に無理はないが、この暑さをしのぐ歩き方は昨日と同様にひんぱんに休憩することと心拍数のチェックをすること。
昨日は125以上でストップしたが今日は120を超えると休むことにする。きのうの疲れも出るだろう。足はなにの問題もなく順調。9時53分。
アリーナ前に53次の浜松宿冬枯れの図

きのうの教訓、気をつけないといけないのは、昼前の11時過ぎから13時ころだ。きのう一番きつかったのがこの時間帯、太陽が真上にくる時間帯だ。「魔の11−13時」


きのう同様、この時間帯は、昼食と休憩にしたいが、そんな昼食場所があるかな?

たとえ、弁当があったとしても、こんな外の暑いところではとても食べる気になりそうもないなあ。


和田西バス停を過ぎ次の交差点に来ると向い側の小さなビルの前になにやら石碑が見えたので渡ったみると
   ・・東海道 
       弥次喜多も通った道だよこの辺り・・
                      
と彫ってあった。
ここで一句

東海道
せみも落ちる
暑さかな

このあたりの道で4匹、歩道に落ちたせみをみた。
上の写真のせみは生きていた、でも、助けてやれないぞ、
こっちも生存に必至なんだから・・・すまん!


おいおい、冗談言ってるばやいじゃないやろ!!

広い国道にそって歩くので日陰はまったくない。
電柱も日陰にして休憩・・・影の男で行こう。
ちょいとでも木陰があればあーうれし!?


あっ、天竜川、やっときた、天竜川!
天竜川町だ。10時26分。



そして、JR天竜川駅はここから右だ。
六所神社前のJR天竜川駅入り口交差点に着く

東海道はこのまますすむのだが、天竜川と聞けば、駅も見たくなったので距離片道500メートル、往復1キロは暑いが、ひょっとして駅前に休憩のコーヒーショップでもないかという期待も込めて寄り道した。

しかし、淡い期待は裏切られて、店もなく駅には座れる待合室もなかった。

仕方なく駅前のロータリーに腰をおろしてしばし休憩。
10時33分。

これも思い出、この駅は、今日の帰りに磐田駅から戻りに通過、または、停車する駅だ。ふと空に目をやるときれいな雲。
さあ、行こう!
午前中に少しでも天竜川に近いところまで行って
橋を渡るのは午後でよい。

1時間ほど、予定に入れていない余裕時間を作っているので、いざとなればそこで調整ができる。

再び東海道に戻ってすすむ、このあたり、東海道の名残松がかなり続く。
暑さがかなり応えてきてひんぱんに休む、心拍数が120を超える・・・11時に近づいてきて、きのう同様、暑さが一段ときびしい。休めるところがあれば、早い昼食と休憩にしよう。
ここは無理をしたらあかん!


しかし、なにかありそうな道路沿いだか、 休憩のできるレストランやコーヒーショップなどはない。店がまったくないのだ、もちろんコンビニもない。すぐ先にある国道1号線浜松バイパスの下を通りぬける。うーん、なにもない。
しばらくすすみ松の木陰で休んでいると白い車がそばにとまった。デジカメで電柱の写真を撮っていたようだが車に戻ってきたので、これから先に食堂か喫茶店はないかと聞いたらまったくないという。この青年、これから浜松方面に行くので車で送りましょうかという。知っているところがあるというのだ。
自分が歩いてきた道だ。丁寧に断ると"お役にたてなくてすみません"と言った。
車は三河ナンバー。三河の人にはお世話になったがこんな青年もいる、また、いい出会いをした!
愛知県の会社で消火栓の仕事をしていると言っていたな!

11時18分。
安間川を過ぎると道路が二手に分かれる、東海道は右の旧道314号線へ。すぐ左のフェンスの内側に安間一里塚の木の標識があったが、これを見落として行きすぎ無駄な時間を使う。文字も読めないくらい消えている。旧道をすすむ前に、二手に分かれた道路の反対側にあるらしい姫街道の道標を探して行くが、ここも二度、100メートルあまりを行ったり来たりしても見つからない。さすがに暑くてしんどくて足が重い。これはもう休憩だ。

かなりきついと感じたので、ここは、ストップ、運よく近くにあった小さな森のようなところへ移動。跡から行く明善記念館の裏にある木立らしいが管理されていなくて荒れ放題・・・それでも救われた。心拍数、124。ここで気分の落ち着くのを待って20分ほど休憩。あの優しい青年と出会ってここまでわずかな距離なのに時間は40分も経過。


この日、一番しんどかった時だ。

やっぱり昼前の時間が要注意!

11時56分スタート。旧道をそのまますすむ。

昔の旅人の夏はどんな歩き方をしていたのやら?
そんなことを思うと現代人の弱さをしみじみと?感ずる。

歩く旅そのものがない、だから知恵もない。
←金原明善の明善記念館(写真上)と生家(写真下)
道路の両側に向かい合うようにして建つ記念館と大きな生家から金原明善という人がこの地で大きな存在の人であったことがうかがえる。

金原明善は、明治・大正時代の実業家として名高く、天竜川の治山・治水にかかわり植林や水害予防などを行った人らしい。


さきほど休憩したのは、写真下の生家の裏庭にあたるところだった。

資料から天竜川の堤防は近いはず。この状況では、食事の補給は望めず、そのまま天竜川を渡ることにする。

中ノ町・和田村堺の杭

現在は中野町
11時59分。

松林寺、ふと見ると左写真の門の真ん中になにかみえる。誘われるように参道を入って行くと合掌した僧がたたずんでいた。
こちらが拝まれている、なんと、なんと、拝むのはこちらのほうです。
もったいない!
こうして自分の東海道の旅の無事を拝んでもらっている・・・ありがたい

そのうち、あたりが急に暗くなってきて風が出てきた、どうも様子がおかしい。雲の変化が激しくなった。

どんどんあやしくなっていく、こりゃ、やばいぞ!

降ってきそう。

あっ、しめた、うなぎやだ!
あそこで昼食をして天気の回復をまとうと思って店の前に行ったら

 「定休日」 ありゃー月曜日。


とぼとぼ・・・
とにかく異様な雰囲気、強い風。砂塵が舞っている。
多分、天竜川の砂だろうと想像する、川はすぐだ。

見えてきた、神社だ、右へ回ると天竜川の堤防のはずだ。
でも、雨になったら逃げ場がないぞ。
とにかくそこの神社まで行こう。

こうなったら決死隊だ、ちょっとオーバーだが本人は真剣。

←12時14分。六所神社横に東海道の道標が建っている。
右だ、もう、そこに天竜川の堤防が見えている。
坂道を強い風と砂が舞ってくる!天竜川の堤防に上がると一段と激しい強風と砂塵が襲ってきて立っておられないもう。川下もよく見えない。

しまった、手に持っていた帽子を飛ばされた、必死でおっかけてなんとか取り押さえたが河川敷の真ん中まで下りてしまった。雨が強くなってきた。あの神社へ行こう。必死で土手を上がる。大粒の雨が音をたてて降ってくる。恐怖を感じた。
近くの六所神社に駆け込む!恐ろしかった・・・雨宿りして、着替えをして、雨が上がるのを待つ。たぶん夕立ちだろうと思っていたら・・・すぐに上がってきた。ほっとした。あー、助かった。多めにお賽銭を入れてお礼とした。

小雨になると上流の天竜川橋が見えてきた。
土手の道路わきに二本の碑が立っている。


天竜川木橋跡・・・ここに木の橋がかかっていたのだろう。
船橋跡
・・・
雨と砂塵がうそのよう↓さっき見えなかった下流の東海道線鉄橋がはっきり見えてきた。
少し前は砂塵で見えなかった 下流↑東海道本線天竜川鉄橋      上流↓天竜川橋
天竜川橋へ、ここは人の通行はできないのでパスで進むようにと資料には書いてあったが、とにかく現地をみることにした。
12時42分。
確かに天竜川橋をのぞいてみると、おー怖い!とても人は通れない。車がすれ違ったら命がないぞ。
すぐ左に新天竜川橋がかかっている。

バス停は手前に戻ったところにあるらしいがその前に新天竜川橋が渡れないかどうか・・・手持ちの資料では渡れないと書いてある・・とにかく確認しておこう。

←写真左に工事中らしい雰囲気の通路が新天竜川橋に続いているので行ってみることにした。高い位置にある新天竜川橋に続く階段を上がって行くとあった!
歩道だ 新しい歩道だ!

ラッキー、新天竜川橋に歩道が新設されていた。
ヤッホー!やった! 思わず大きな声で叫んだ。

12時44分。

諦めてバス停に行かなくてよかった!

念願の天竜川をゆっくりと見ながら橋を渡れる。
国道1号線
だ。


大きな川だ。周囲が平野なので360度、ぐるりと見渡せる、すばらしい景色だ。水量は少ないな。
一気に渡るのはもったいなくて、振り返ってみたり、下をのぞいてみたり・・そして、写真を撮ったり・・・

渡歩記念に自分の写真を撮っておきたくて、じっと待っていると自転車のおじさんが来たので二枚、撮ってもらった。一枚がピンボケだったので二枚お願いしておいてよかった。12時51分。

相棒のリュックも完歩の記念撮影。
   ↑天竜川橋   ↓新天竜川橋 1号線
新天竜川橋を渡りきり、渡ってきた道を振り返ると・・・
写真左の上下


写真下は天竜川橋の磐田側の入口
13時15分。
【天竜川】諏訪湖に源をもつ天竜川はあばれ川といわれ、洪水による被害もしばしばあった。家康の朱印状により渡船制度が整い、広重の「行書東海道五十三次」見付にもその様子が描かれている。現在は鮎釣りが盛んらしい。

1,200メートルの橋を渡り、かって、天竜川の渡しがあったという橋跡を訪ねてみることにした。コースは外れるがどうしても見ておきたい。
河川敷で休憩、ウォーキング仲間に社メールで感動を伝える。渡ってきた橋が左に見えている。河川敷も広い。
川岸の集落を上って行く。三か所ほど渡し跡の碑が見つかった。そこから向こう岸をみてここを渡るのも命がけだと思った。参勤交代の大名行列はもちろんのこと、旅人もここの渡しを利用したのだと思うが、昔の東海道はどんなにか苦行だったか偲ばれる。

天竜川渡船場跡

延長5年(927)頃から行われていた池田の渡船。渡船場は3か所あり、川の水量に応じて使い分けられていた。下の渡船場は、平常水位の時使用し、中の渡船場は、中程度の水位の時、高水位の時に、上流の渡船場を使用していたようだ。
     家康の天竜池田渡船の許可証
      (遠州天竜池田渡船之事)

家康からお墨付きがあった者が渡船を行うことができた。お墨付きは、今から約430年前(1573年)、徳川家康が池田の渡船関係者に与えた天竜川渡船権の許可証です。武田軍が攻めてきた時、常に家康側の味方となって協力を惜しまなかったことから、与えられたとされています。これにより、天竜川の渡船権は、池田の渡船にかかわる人だけが持つようになりました。

←遠州天竜池田渡船之事が説明されている。

↑池田橋の跡碑のそばにある説明碑から・・・
江戸時代の天竜池田渡船・・・江戸時代に入ると、大きな川には政治的な理由等により、橋をかけませんでした。渡船賃は、武士等の特別な人を除き、一人当たり十二文かかったそうです。天竜川は、渡船による川越でしたが、水位が七尺(約2.1メートル)を越えると川留となり、その間旅人で旅籠屋がにぎわったそうです。
・・・簡単に渡ることができなかったことがわかる。

↑天竜川を上り下りした帆かけ船。池田では、明治に入り、渡船がなくなった後、帆かけ船等により、天竜川上流部へ生活物資(米など)を送り、上流部からは材木・鉱石(銅など)を陸揚げし、人車軌道(トロッコ)にて中泉駅(現磐田駅)まで運搬するための中継地点として活躍をしました。しかし、昭和になり、道路の整備やトラック運送が発達し、川にはダムができて、今までの船で物資を運送することもなくなり、それと共に見かけなくなりました。

左・河口から10キロ地点の標識。ここが池田の渡し、橋があった地点。大きいな河川敷、その向こうに広い川、ここを東海道を行く人、物資は行き来していたのだ。いまは河川敷公園になっているが昔は堤防まで水があったのでは・・・

池田の渡し歴史風景館は月曜日が定休日、残念。
    写真正面門の真ん中を横に伸びでいるフジ。 風景館から近い所に行興寺があるというので少し回り道になるが寄ってみた。ここは、800年ほど前に、謡曲「熊野・ゆや」で知られる池田宿の長者娘・熊野御前が尼となって建てた寺として知られている。ここには国指定天然記念物熊野の長フジがある。確かにのぞいてい見ると境内はフジだ。、五本あるそうだ。
コースを外れて渡船場跡まで往復したので予定時間に大きな余裕はなくなった。しかし、ゴールは17時、磐田駅。残りの距離を考えても別段に問題はない。それより気になるのは降り続ける小雨による疲労だ。服も当然濡れている。濡れている足元の道路にも注意が必要。とにかく、あわてなくても時間はまだあると思って元の天竜川の近くまで戻ってきた時は、まず、これからゴールまでは大丈夫と信じていた。これが大間違いだった。
二つの資料を持っていたのだが、どうも出てきた長森交差点がどちらの資料でも確認できない。
さあ、困った。しばらくそのまますすむがだんだんと田園風景が増えてきて様子がおかしい。人影はまったくない。もとの交差点に戻って一軒の家にお邪魔して尋ねることにした。
持っている地図を示すと当面の目的の長森立場はかなり向こう・・・いま引き戻してきた道をさらに行くらしい。ところが目印になるものはないと説明しにくそう。仕方がないので辞して歩いて行くが田園地帯の真ん中に行くばかりで・・・とうとう走っている車に手をあげて教えてもらった。歩数計で計った距離では1200メートル行き過ぎ、往復2400メートルも無駄な距離を歩いてしまった。




長森立場の標識が道の角ではなく、やや入り込んだ住宅の一角にあったので、とても目にはつかない。雨の中、がっくりきた。なんでやねん!
雨はしとしと降る、空は暗い、なんだかさみしくなる。
これも東海道・・・と口にしながら、今度は時間が気になって速度を上げる。もう、迷ってはおれないぞ。15時23分。行興寺からさほど距離はないのに迷って1時間以上もかかっている。
立場とは・・・江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋のおもな村(間村)には旅人・人足・駕籠かき・伝馬などの休憩所が設けられていた。明治時代以後は人力車や馬車などの発着所、またはその乗客・従業員の休憩所となった。
立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋を兼ね、旅人たちはお茶を飲んだり、名物の餅などを食べて休憩した。また、馬もここで湯や麦などを補給した。

また、ここ長森の「長森かうやく」は、江戸時代の前期万治年間から山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬にできるあかぎれや切り傷などに効能があるとして参勤交代の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちのお土産品として大変な人気があったという。


相変わらずの小雨の道をどんどんすすむ、のんびりとはしておれない。
15時23分。



雨が大ぶりになってきたので若宮神社の参道の木の下に入って休憩。15時29分。
さすがに心配になってきた、このまま、この雨ではとても歩き続けられない。
傘を買うコンビニももちろんないところだ。

現在地からゴールの磐田駅までのコースと距離の確認と時間設定をする。


ここで帽子も交代!

じっとしていても時間が経つばかり、濡れながら歩こう、どうせ濡れているのだから・・・と気を取り直してすすむ。



これはなかなかの標識。

多分、豊田町に入ってきたのだろう。
こういう標識は、自治体によってさまざま、浜松のあの杭棒を削って白地に文字を書いた標識とは大変な違いだ。

感じがいいぞ。

東海道と歴史の道の
次の目的地は宮之一色一里塚の標識。
依然と雨は降り続く、人影もまったくない。
すれ違うのは車だけ。
手に持った資料は濡れてボロボロ
蒸し暑くてたまらない。

15時42分、ラーメン店が見つかった!あった!思わず声になった。おそい昼食になったが「坦々麺ラーメン」がおいしかった。730円。よくこの時間まで辛抱したと思う、緊張が続き空腹などまったく気にならなかった。

通行量の激しい231号線をすすむ、このあたりも松並木があちこちに残っている。車関連の店、工場が続く。

豊田町森下から宮之一色へ

道路横に宮之一色秋葉山常夜燈、ここもきれいな説明板があり常夜燈の管理もきちんとされている。地元の自治会がしているようだがすばらしいことだ。


16時19分
お店、工場が続く、歩道のない側道をゴールを目指して・・・5時に磐田駅、うーん、ぎりぎりかオーバーするか・・・時計をみながら、まだ、歩いたことのない道を一歩一歩すすむ、こんなことも実は楽しい。
乗りたい電車は、5時14分の豊橋行だから多少の時間的な余裕はあると思うが、これも歩いてみないとわからない。

宮之一色一里塚、絵は当時の一里塚の様子らしい。
16時23分
高砂香料工場前を通過、やっと雨があがってきた。
ほつとする。16時30分ジャスト!

時計とにらめっこ、疲れは感じないが、時間の経過は気になる。
さらにすすむと道路横に丁重に祀られている祠を発見。そばに立つ説明板には次のように書かれている。16時35分。

くろん坊様 説明板より

黒坊大権現は、旧東海道筋で、現在地の西約百米(現磐田化学正門)の田んぼの中にあった祠を移したもので、咳や熱病の神様とされています。
インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので、土地の人々が手厚く葬ったものといわれており、毎年十一月三日が縁日とされています。   磐田化学工業椛蜿シの会

なんだ、会社が管理しているのか・・・差別用語ではないのかな?
磐田化学工業を過ぎると231号線から別れて右の旧街道をすすむ。
16時45分に中泉公民館、キリスト教会、弘法大師堂の前を通り、道を上がり下がりしながらすすむと突然、前方に大きなビルが見えてきた。↓ジュピロ磐田の横断幕がかかっている。
駅前の交差点、左に行くと見付宿へ、これが次回のコース。
右へ行くとJR磐田駅。今日はここまで、磐田駅へ急ぐ。




それにしても、磐田は「ジュピロ磐田」の町、いたるところにジュピロが氾濫している。 歩道にも駅前にもこの通り・・・

午後からは、直射日光の暑さからは解放されたが、小雨にぬれて蒸し暑さにはまいった。それでも終盤は問題なく、目標とした17時磐田駅ゴールも3分前の57分に到着。途中の予期しなかった雨にもあったが、最後まで歩き続けたことにきょうも満足。
         歩数  37,013歩    距離  25.9キロ  
道にまよったりコース外まで足を延ばしてまわり道したために大幅に距離と歩数が増えた。

帰り道は、ここから青春18きっぷを使った長い列車の旅が始まった。

磐田発17時14分→
豊橋乗換→
岐阜大垣乗換→
米原乗換→
新大阪着22時12分。

磐田を経って約5時間の旅も終着。

猛暑の二日間、事故もなく、予定したコースを完歩できたことを喜びたい。また、歩いた自分を誉めてやりたい、労ってやりたい。自分では密かに歩ける自信は持っていた。しかし暑さに対する確信はなかったので安全第一に無理だけはしないことと言い聞かせて歩いた。
2年前の9月、少し涼しくなっていたが、熊野古道の難所、携帯電話も届かぬ中辺路の峠越えの3日間をひとりで完歩した経験があり、それに比べれば、距離も短く、道も平坦な東海道を歩くことに問題はないと思っていた。一に暑さ、二に暑さ、暑さをいかに克服するかの一点だけだった。
今回の完歩は、夏場歩きの貴重な経験になった。来年の夏、もし、東海道を歩くとしたら、もっと余裕をもって歩けるだろう。自分にこれだけのチャレンジをする強い意思があることを再発見したことがなによりの収穫だったのかもしれない。
"チャレンジするから面白い"これは今年のモットーだ。