のんびりゆっくり 東海道シリーズ-20
2009.02.07 丸子→府中

2009年2月7日(土) 「丸子宿」(静岡市)→「府中宿」(静岡市)
急用で上京することになったので、東京での約束時間16時に間に合うように静岡で途中下車、前回の丸子宿から府中宿まで歩くことにした。緊急、短時間の東海道五十三次歩き!

早朝の新幹線で新大阪をたち、名古屋でのぞみからひかりに乗り換え静岡駅へ、静岡駅へ降りたのは初めてだ。

 こんにちは、静岡さん!

バスの待ち時間が長くて丸子宿の西の入り口、前回ゴールの丸子橋へタクシーで移動。
途中、安倍川にかかる安倍川橋で運転手さんが背中に富士山が見えると教えてくれたので振り返る、雪をかぶった富士山の迫りくるような迫力にびっくり、この橋を今日渡れる、わくわくする。
前回11月9日にゴールした丸子橋。

今日はここ丸子橋からスタートする。
橋の正面にあるとろろ汁でおなじみの丁子屋、梅がちらほら咲いてほのかな香りが春の訪れを告げているよう。
お店の開店は11時から、店の人がさかんに店先を掃除していた。




丁字屋の前にある広重の丸子名物茶店の絵名ぶつとろろ汁と書かれている。


東海道を旅する人にとってとろろ汁は楽しみだったのだろう。


丁子屋の梅の木の横にある芭蕉句碑 

 "梅わかな丸子の宿とろろ汁"


東海道の道中には梅の花が咲き、宿の食膳には若菜が出され、丸子の宿では名物のとろろ汁を召し上がったりしてよい旅をしてくださいという意。
十返舎一九東海道中膝栗毛の碑

けんくハ(けんか)する
夫婦ハ口をとがらして鳶(とんび)とろろに
すべりこそすれ


と彫られている

とんびとろろのわらべうた


あたりを散策していると後ろから30代後半くらいの男性に声をかけられた、東京からマラソンで五十三次を走って京都へ向かっているという、すごい、しばし東海道談義をして別れた。


←丸子橋の上から前回越えてきた宇津ノ谷方面が見える。
穏やかな早春の日差しを背に受けて走って行く男性の姿を見送ってこちらもスタート、午前9時半。
今日の予定は午後2時まで、3時前の新幹線には乗りたい。車の通行量の多い道を日差しに向かって歩く。ウォーキングには最適の天気、ほほに当たる風は寒さを感じないほど気持ちがい。今年最初の東海道歩きは、いい歩きができそうだ、梅も咲いて歓迎してくれている。

   おっ!怪しい奴、こっちを写している・・・
しばらくすすむと道路左側に丸子宿本陣跡の大きな碑が立っている。碑に彫られている説明から・・丸子宿が東海道伝馬制の制定によってり宿場町に定められたのは関ヶ原の戦いの翌慶長六年(1601)です。江戸から数えて二十番目の宿場町で江戸期の宿場戸数は二百戸余りでした。宿場町には本陣・脇本陣等が設けられ、本陣は参勤交代の諸大名・幕府の役人・勅使や公家等の
宿泊所で大名宿ともいわれました。建物は書院造で門・玄関・上段の間が設けられた広大な規模の陣屋でしたが明治三年新政府によってこの制度は廃止されました。→

  【20-丸子宿】天保14年(1843)
       人 口   ********人
       家 数     211軒
       本 陣       1軒
       脇本陣       2軒
      旅 籠      24軒

宿場の名残はない。すぐ隣に明治天皇御休憩所跡の碑。
神社に梅がきれいに咲いてちょっと寄り道・・
神社前を通りどんどんすすむ


↑長田西小学校向かい側までくると歩道上に埋もれかけた丸子一里塚が立っている。うす黒く汚れて文字もはっきりわからない、ここは気をつけないとただの石と見過ごしてしまうようにひっそりと立っていた。

日本橋から四六番目の丸子一里塚、大正年代に作られた石碑らしい。

さらにどんどんすすむ。気持ちがいい。

丸子郵便局前、静岡鉄道バスセンター前を通り左へ佐渡り交差点へ向かうところをうっかり直進して早くも時間ロス。


たった一本の松の木にも東海道の名残か、歩道にぽつんと残されている。
レトロ風のバス、ボンネットバス、なつかしいなあ。


←地蔵堂。
旅ゆく人たちはここにお参りして歩いたのだろうか。

←佐渡の手児万葉歌碑

案内の説明・・・江戸時代、このあたりは佐渡村、ここには松並木が続き、参勤交代の大名行列や多くの旅人が行き来していた・・・
佐渡の交差点、ここで1号線に合流、車の往来が激しい
写真右へすすむ。
佐渡交差点から1号線をしばらくすすむと手越原交差点へ。





ここで1号線からわかれて左の道へすすむ。
手越しには鎌倉時代、宿がおかれたらしく手越しの里と呼ばれる大きな宿で遊女も多くにぎわったそうだ。
左右に松波木が残っている。このまま進むと安部川だ。




←高林寺入り口のお地蔵さん


側にお寺の続く道を富士山の見える安倍川橋を目指して元気よくすすむ、寒さはまったく気にならなくて手袋も外した。両側にお寺の続く道を富士山の見える安倍川橋を目指して元気よくすすむ。
あっ、橋が見えてきた!

10時27分 急ごう!


自然と早足になる、富士山が待ってくれている・・・・と信じて。
緩やかな坂道を上って橋のふもとまで行く
緩やかな坂を上って橋のふもとまで行くと目の前に富士山が・・

?あれ ん? 冨士山?

見えない!

富士山がいない!

おかしい?

どこへ行った?!

なんでやねん!!


快晴、真っ青な空

ただ、富士山の方向だけ雲に覆われていた・・・


気を取り直して安倍川にかかる安倍川橋を渡る、これまで渡ってきた天竜川や大井川と川幅を比べれば半分にも満たない安倍川だが、それでも大きな川だ。この正面に見えるはず・・・ ・・・あ、がっかり!
渡り終えると名物の安倍川餅の店が2軒、手前の一軒でおやつに買うことにした、注文してつくってくれるので時間がかかる。
今でもこの安倍川餅は名物として人気があるらしい、東海道を行き来していた昔の旅人は、ここまでくると安倍川餅を食べながら冨士を眺め一息ついていたのだろうなあ・・・弥治さん、喜多さんもきっとそうだろう。
安倍川もちの隣に安倍川の義夫の碑がある。
安倍川義夫の碑には、ほのぼのとした物語があるようで、旅人の落とした小判の入った財布を拾った川越し人足が、落した旅人を追いかけて渡し、礼金も固辞、その人足を正直者として讃えた碑らしい。旅人の故郷だった和歌山県と静岡県の有志が立てた碑ということだ。

すぐ近くの弥勒公園に行ってさっそくオヤツに3個食べた、おいしい、旅人気分も味わった。こしあん、つぶあん二個ずつ+きなこに白砂糖をまぶした餅4個の計8個豪華なおやつ。実に素朴な味で子供のころ食べた黄粉の味がなつかしい。




進路は写真の右へ、左の広い道路をすすむと府中一里塚へ。
公園内には、由井正雪の大きな碑が立っていた。
由井正雪はこれからすすむ由比の生まれで三代将軍家光没後に反乱をおこそうとして失敗、自殺した歴史上の人物だ、碑の大きさから地元では尊ばれているのだろう。

この場所に碑があるのは、当時、この安部川河原に処刑場があって由井正雪と一族が河原で晒し首になっていたからだそうだ。

このあたりが弥勒町、右→の説明によるとここ弥勒町は、駿府の城下町の西の見付の前面に位置し、駿府九十六ケ町に準じた扱いを受けていた。古くは安倍川の河原で「正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を安部川餅という。これが「弥勒町」の名前の由来となったという。
この弥勒公園あたりが府中宿の西の入り口(出口)だった。

公園の入口角に安倍川川会所跡の説明板が立てられている。
川会所とは、安倍川の川越し人足に指示を出したり賃銭の取り扱いをする役人がいたところ。

近世の安倍川は、歩行渡りの川として川会所が設けられていたが、明治四年の渡船と仮橋、明治七年の宮崎總五の手になる安水橋の架橋からの安倍川の通行形態の移り変わりとともに弥勒の町も大きく変化したという。


安倍川川会所跡から一筋東海道を外れた本通にある府中一里塚を訪ね、訪ねて歩いて八丁目でやっと発見した。日本橋から45番目の一里塚。

何人かの女性に聞いてもわからず・・・とうとう、店の中にいたご主人に聞いて教えてもらった。近くにあっても意外と気がつかないのだろう。
石碑には大正14年と彫られている
一里塚から元の通りに戻って新通りをすすむ伏見稲荷前を通り、秋葉神社前から二つ目の辻を右折して人宿町通りに入る。
このあたり新通り二丁目は東海道五十三次の中で「唯一公認」の遊郭として認められたところらしい。


人宿町通
りには説明付きの立派な道標が立っている。
←碑文より・かっては、七間町通りに接続する東海道で縦七間通りと呼ばれた事もあり、東海道府中宿の主要路である。庶民の木賃宿の多い旅籠町として栄えた所である。なお、本陣をはじめ武士の泊まる所は、紺屋町、伝馬町付近であったようである。


↑駿河竹千筋細工・・府中名物は手工芸品で竹細工はよく知られている。

人造町通りを左折しておおきな七間通りにすすむ、七間通りには映画館が続き人通りも多くなる、どうやら静岡の歓楽街のようだ。

この通りにあるモニュメントは工夫されていて楽しい、二つ目の札之辻に向かう。
札之辻町・・
ここには高札場があったことが札之辻町の由来になっている。高札とは、幕府の法令を掲示するところで町奉行所が設置していた。このあたりは商家が軒を連ね、多くの人々で賑わっていたらしい。ここには高札があったところらしい。


札之辻石碑の前で小学生高学年くらいの女の子とお母さんが石碑の文字を声を出して読んでいるのに遭遇、話しかけると地元にいながらこれまで碑に気がつかなかったと言っていた。




札之辻を右折して呉服町をすすむ、お天気がいいし人通りも多い。両側に商店が続き、通りには東海道五十三次のモニュメントが続く。静岡らしい食べ物で昼食をしたいときょろきょろ歩きするが、どうもじいさんの入れるような雰囲気の店がなくて・・・あー腹へった!
この呉服町は、今川氏時代に駿府の本町と言われ城下の中心地だったらしい。
呉服町交差点を左折して江川町通りをすすむ。
ビルの続く大きな三叉路、地下道を通って向かい側に出るとビルの壁に「大御所 徳川家康公の駿府城」の説明板と「徳川家康公御遺訓」が彫られた碑が立っている。このあたりがオフィス街らしい。ここで写真を撮っていたら外国人のグループが寄って来て何やら話していた・・・多分、中国の人だろう。
中国語が話せたら説明できるのにちんぷんかんぷん・・・

ビルが続く、そのビルの前の一角に西郷・山岡会見史跡のモニュメント・・・

西郷・山岡会見史跡について、1868年(慶応4年)2月12日、幕府を平定するために駿府まで軍をすすめた西郷隆盛のもとへ勝海舟からの手紙を携え山岡鉄舟が乗り込んできた、この会見は松崎屋弥兵衛宅で行われ、勝・西郷の江戸城無血開城を話し合った、鉄舟は徳川慶喜の身柄につき西郷に善処を約束させた。この話し合いによって明治政府が樹立されたというから歴史を作った場所といってよい。

 【19-府中宿】天保14年(1843)
       人 口   14,071人
       家 数    3,673軒
       本 陣       2軒
       脇本陣       2軒
      旅 籠      43軒

説明板より・・「府中宿」は阿倍川に近い新通り川越町から人宿町・七間町・呉服町・江川町、そして伝馬町を通って横田町に至る東海道を軸にした駿府の城下町全体を指していました。府中宿は東海道の中でも最大級の宿場の一つでした。その府中宿の宿場の役割を担っていたのが「伝馬町」で宿場の公の施設である荷物貫目改め所や問屋会所をはじめ、上と下の伝馬町にそれぞれ本陣と脇本陣、それに43軒の旅籠が立ち並び賑わいを見せていました。

府中宿は駿河の国の政治の中心地であったことから府中といい、駿河の府中であるところから駿府ともいった。


下伝馬本陣・脇本陣跡の碑↑伝馬町の由来→
東海道はこの伝馬通りを進むが、せっかく来たのだから東海道から離れるが駿府城跡へ
官庁街の従えるように広がる駿府城跡は広く、いまはお堀の他、巽櫓が再興され、きれいに整備された公園は静岡の人の憩いの場になっているのだろうと思った。

←城代橋  ↓家康公の散歩道の野次喜多像。


駿府城は今川氏に始まり義元が城下町として整備したが、家康は竹千代時代の七歳・1549年(天文18年)から12年も人質としてこの城で過ごした、桶狭間の戦いで今川義元が敗死して解放され岡崎城へ戻った。
天下統一を果たした後、再びこの城を居城として三たび駿府に入り、城を拡張子好きな鷹狩りなどで過ごしていたが、1616年(元和2年)この城で亡くなった。

現在は、堀と石垣が残っているだけ。

←巽櫓   ↓東御門
城跡をのんびり歩きまわっておやつ代わりに買った安倍川餅を全部食べてしまった・・・結局、昼食代わりになってしまった。

早咲きの桜も咲き始めている。

本丸跡に徳川家康公の大きな銅像が立っていた、ここまで岡崎城、浜松城、そして駿府城と家康公ゆかりの城で家康公に会ってきたが、それぞれの地で天に向かって立つ姿はいかにも天下人らしく雄々しくて人々の誇りなのだろう。


←家康公像の横に家康公お手植えの「みかん」の木。
午後2時には静岡駅に戻りたいのでゴールは、静岡駅のひとつ東にある東静岡駅にすることにして東海道伝馬通りへ戻り急ぐ。
旧鋳物師町を通り通り、達磨店、西宮神社前を通り、伝馬町通りを右へ大きくカーブしてすすむ。

←春日1丁目の交差点で国道1号線に出てそのまま横切りJR東海道線をくぐる、このあたりが横田、府中宿はこのあたりから。このあたりに東見付があったらしい。
東海道線のガードをくぐってすぐに左の道へ入るところを手持ちの地図の読み方が違って少し行って左へ入ったために迷ってしまった、運よく名古屋から近くに仕事に来ているというおじさんが手持ちの地元の地図で確認してくれて助かった。多分15分ほどの時間ロスか、元へ戻り曲金観音をめざす。
↑曲金観音堂。




ここは府中宿と江尻宿の中間の曲金。

↑今回は昨夜、急に決めたためにいつもの「証明書」の用意ができなくてメモ書きになった。曲金観音の前で撮影。


曲金観音から法蔵寺により黄金橋へ、ここから東海道線をくぐって進むのがコースだが、2時に静岡駅へ戻りたいのでJR東静岡へ行く。

そのまま直進、東海道とは少し離れるが真新しいJR東静岡駅へゴール、約24000歩。余裕を持って新幹線に乗って東京での予定も楽しく過ごすことができた