のんびりゆっくり 東海道シリーズ-21
2009.04.13 府中→江尻→興津→由比

2009年4月13日(月)69歳誕生日
 「府中宿」(静岡市)→「江尻宿」→「興津宿」→「由比宿」(静岡市)
日帰りで東海道五十三次ウォークに行ってきた記録。前回に静岡市の第19番目の府中宿まで進んでいたのでその続きの18番江尻宿、17番興津宿から16番の由比宿までを歩いた。3年計画で70歳の誕生日にお江戸日本橋へゴールすると決めて京都三条大橋をスタートしてから、昨年の68歳の誕生日は愛知県の岡崎市で迎え、今年の誕生日も東海道のどこかで迎えたいと決めていた。今回は、他県で深夜までの合宿をしていて睡眠不足に陥っていたので、前夜ぎりぎりまで決めかねていたが、睡眠時間3時間ながら目が覚めたので行くことにした。
早朝6時38分の新幹線で新大阪を経ち、静岡駅から在来線に乗り換え一つ目の東静岡がスタート最寄り駅。
朝の静岡市は快晴、日差しも暑いくらい、これなら今回の楽しみ、興津・由比間のさった(薩埵)峠から富士山を望む絶景に会えるだろうと心は早くもわくわくどきどき。

スタートの黄金橋から東海道線の下、柚木架道橋を通り↑
静岡鉄道柚木駅前交差点を右へ国道1号線をすすむ。
交差点標識に静岡大学の方向がさしてある、そういえば東静岡駅から学生が多かった。
静岡鉄道のカラフルな車両が行き通う、それを撮りながら1号線をすすむ。右側の道路の白線内でやってくる電車を写している姿を想像すると・・・想像せんとこ!


静岡護国神社へ寄って見た。

ここから1号線からわかれて、また、静岡鉄道に沿ってすすむ。
この鉄道、結構、走っているので乗降客が多いのだろう、静岡市にも近いのだから当然なのだろうが。



静鉄長沼駅前を通り長沼一里塚を目指してすすむが見つからない、どうやら行き過ぎたようなので出会ったご婦人に訪ねたがわからない。来た道をゆっくりすすんでいると建物と電柱の間に長沼一里塚の石碑を発見。

見つからなかったのは、石碑の手前にゴミの入った袋がうず高く積まれていてみえなかった。

ふたたび1号線へ。
信号を渡るときは、とくに慎重に、右よーし、左よーし!

長沼交差点の植え込みにめずらしや麦が植えられていた。
ここは旧長沼村の屋敷跡であったことが石碑にほられている。



古庄のバス停から右の道へすすむ。
しばらくすすむとJRの操車場わきに出て北村地下道を通って向い側に出ていく。この地下道、長い、なにしろ上は操車場で線路がたくさんあるから。

立派な旧東海道記念碑と説明文が掘られた石碑が立っていた。


東名高速道路の下を通り南吉田橋を渡ってどんどんすすむ、4月というのに暑い!



10時20分。このあたり旧清水市、いまの静岡市清水区に入る。
まっすぐな道をどんどんすすむ、今日も交通事故に注意や。
ここで年配のおじさんと目があったので挨拶して立ち話。
これから訪ねる草薙の一里塚を知っているそうで、銀行の前にあると教えてくれた・・・こんな時間が一番楽しい。
やがて草薙神社への標識と、道路の右側に大きな鳥居が見えてきた。大鳥居が道路わきにあるのにはびっくりした。


日本武尊ゆかりの草薙神社は鳥居から参道を1キロほど先にあるらしくて、心残りだが素通りした。

すぐ緑橋を渡ってさらに、すすめ、すすめ!
↓100円ショップの広告塔?
どうやら靴らしい。キリンさんより大きい!



道路わきに古い庚申塔が二つ
何が彫られているのやら文字がわからないぞ”!

草薙の一里塚
江戸から43番目の一里塚。


立派な石碑と説明が彫られた石碑。
隣に狸さんもいる!


10時51分。
草薙一里塚を過ぎ、馬走1里山の信号をわたると有度の標識、そこで最初の10分休憩。まだ4月というのに汗がにじむ。日影がありがたい。左の道を行く、小学校の横をすすんでいると正面に冨士山が見えてきた。すぐそこに見えている!多少は霞んでいるがそれでもはっきり見える。思わず、やった!

電線が邪魔なのでもう少し先に行って写真を撮ろうと思って史跡さがしに夢中になって気がついたら、もう、冨士山の姿はなかった。狐に包まれたみたい。時間にすればわずか、しまった!
上原子安地蔵堂前へ。永禄11年(1568)、武田信玄が駿府の今川氏真を攻める時、本隊の武将山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心とする上原の地に宿営布陣した記録があるという。後に徳川家康も立ち寄ったという。上原延命子安地蔵尊の由来記として詳しい説明が書かれているが古来から人々の長寿、安産、子育、安全の守護として、近隣の人々の信仰を集めてきたという。

さらにすすむと久能寺観音道の古い道標、安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進によって造立されたもの。久能寺観音道は、この平川地から久能寺に至る有度山麓を通る道のこと。久能寺は、もと久能山にあったが、甲斐の武田信玄が駿河の国主今川義元攻略のため久能城を築城、そのため天正3年(1575)現在の位置に移築された。
追分踏切と表示された静岡鉄道の踏切を渡り、おばさんに聞いたら、富士山はきのうはよく見えていたけど、きょうの天気では見えないかもしれませんね、とあっさり言われた、ショック!



金谷橋に追分のモニュメントがある。
昔からこのあたりは東海道と清水港への分岐点となっていたところ。
金谷橋をすすむと追分羊かんの看板が見えてきた、ウォーキングには必ず羊羹を持参するほどの羊かん党だからおやつに買っていこう。

店の近くまで行くと様子がおかしい・・・なんと13-14日は改装のため臨時のお休み。工事中、ありゃー、ショック2! 
竹の皮で包んだ蒸し羊かんで有名な老舗だそうだ。
店の隣に「是より志みづ道」と彫られた清水道・追分道標が立っていた。

写真左面には、法華信者の手によって建立されたことが彫られている。東海道を江戸方面に下がる者は清水港へ抜ける場合は、この道標を右折すれば近道だった。
幼稚園児のお帰り・・・ピカピカの帽子にカバンかわゆい。



さらに古い建物の連なる道をすすむと江尻宿木戸跡の石碑が道路わきにひっそりと立っていた。
ここから江尻宿の東の入口か。江尻宿は駿府では府中宿に続く大きな規模の宿場だったが、いまその面影はまったくない。
 
慈雲寺と掲示板の言葉。
 
この掲示板のことば集めも楽しみのひとつ。浄土宗のお寺はこの言葉がよく書かれている。日蓮宗も多い。

 生かさるる
 いのち尊し
 けさの春
古い通りをすすむ・・・。この通り、人影はない、通るのは車だけ。これじゃ商売は大変だ!
マンホールまでぴかぴか富士山。


←ずいぶんと古い煎餅やさん
老舗なんだろう。
さらにすすむ、巴川にかかる稚児橋の手前、左側の壁面に船高札の説明板があった。

徳川時代の初め頃、河川交通の重要な場所であった巴川畔のこの付近に現在の掲示板にあたる「船御高札
が建てられていた。

巴川にかかる稚児橋。

この稚児橋の欄干4カ所にはゆかいな4体の河童があって愉快だった。


慶長12年(1607)巴川架橋の祝典の際、川の中から突如現れた河童が橋に上がり、どこにか消え去ったという伝説から名付けられた。


このあたりがサッカーの発祥地だという。


橋の手前に河童の腰掛け石がモニュメントになっていたので、ここは人間の腰掛け石にさせてもらってしばし休憩、コースの確認。11時55分。陰に入らないと暑い。しっかり水分補給。

平成3年秋の台風により石垣が崩れ、修復工事を行った時、二つの石が掘り出され、稚児橋の河童伝説にちなみ、「河童のこしかけ石」と呼ばれるようになったそうだ。
稚児橋をわたり最初の辻を左へ入ると広い商店街が続く、このあたりが宿場の中心だったのかもしれない。
    【18-江尻宿】天保14年(1843)
          人 口    6498人
          家 数    1340軒
          本 陣       2軒
          脇本陣       3軒
         旅 籠      50軒

駿河では府中宿に続く規模の大きい宿場だった。
説明板より・・・今川氏の頃から、この江尻は三日市場として栄え、永禄12年(1569)武田信玄が江尻城(小芝城)を築くことにより、江尻は城下町となり職人の町が発達した。慶長六年(1601)徳川家康は、東海道五十三次を定めるにあたり、それまで今の北街道が主要な街道であったものをあらため、銀座通りを通すこととし、この地を江尻宿とした。

慶長12年(1607)巴川に初めて稚児橋が架けられ、交通が便利になり、江尻宿は上町(魚町)中町(仲町)下町(志茂町)の宿通りを中心に、西は入江町の木戸、東は伝馬町・鋳物師町・鍛冶町・本郷町から辻村の木戸まで長さ、およそ二キロメートルであった。・・・宿は、伝馬町と魚町で鈎(かぎ)の手に曲がり見通しが悪く、また紺屋町・七軒町は袋小路になっているのは、万一の場合の警備のためだった。・・・以下略

さらに左の伝馬通りをすすみ、信号四つ目の交差点を右折して寄り道、JR清水駅へ。


12時を少し過ぎたところだったので駅前の商店街で昼食にした。完熟トマトとあさりのカレー、930円、あさりは大好きでおいしかった。

←清水駅
午後のスタート、12時50分。
江尻宿東木戸跡(説明板より)

江尻宿東端の出入り口として、辻村と本郷の境に木戸(見附)があった。この付近は道路が枡形ではないが「く」の字形に曲がり、外から宿内を見通すことが出来ないように工夫してある。木戸の脇には番小屋も建っていたものと思われる。

 ↓高札場跡




←辻の一里塚跡、江戸から42番目。
普通は石碑が多いのだが、ここは簡単な掲示板にプリントされた
紙がビニールでおおわれただけのもの。



こういう単調で変化のない道が一番疲れる。
周囲は小さな工場が続く。
はるか向こうに見える山並みが多分これから行くさった(薩埵)峠につながる山だと思う。
←細井の松原

慶長9年(1604)、二代将軍徳川秀忠が街道の両側に松を植えさせ17年に完成した、松原の全長119間2尺(360m)、松の本数は1106本。この松は第二次大戦で松根油の原料として伐採され、現在はその跡がなくなっている。




↑無縁さんの碑
この碑には次のようなことが書かれている。

 細井の松原無縁さんの碑
辻村の東通りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和十九年、松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めた。平成十三年、東海道四百周年を記念しこの石碑を建立した。
平成十四年三月「生き活き」街づくり辻の会
辻町交差点をすすみ1号線を興津をめざす13時20分。


ここから左へ行くと清水港らしい。
清水の次郎長親分にご挨拶のお参りをしたいのだが、場所が離れていて時間的に余裕がない、はるかかなたに目礼をしてすすむ。

街道に残った一本の松

そばに行ってみると
左のような印がつけられていた→
こうして保存しているのだ。
1号線は続く、庵原川にかかる庵原橋を通過・・・↓
歩道が広いしまっすぐな道なので歩きやすいがなにしろ単調。
般若心経を何度も何度も唱え続けて・・・

観自在菩薩・・・
コンビニに寄ってお茶とミニ羊羹とのど飴を買った。 延命地蔵前から側道に入り古い屋並みをすすみ突きあたりを左折する。

バイパスの下に出て、さらにすすむと、再び、さっきまで歩いていた1号線へ戻っててきた。要するに回り道をしただけ。
こういう経験はいたるところでしてきたので、あーまたか!
ここで不思議な光景に出会った、向かい側の道路にそった家々が少し斜めになって立っている、後から撮った写真で確認しても確かに斜めだ・・・なんでやろ?


清見潟バス停まで来た、ここのベンチに座らせてもらってしばし休憩。おっとパスが停まった、すみませ、乗りません!。

持ってきた四つ切のりんご最後のひと切れを食べる。
←清見寺(国指定史跡)

さらにすすむと左手の高台に清見神社が見えてきた、国指定の史跡で家康や秀吉にもゆかりある寺だそうだ。ここに清見ケ関が設けられた時に守護として仏堂が建立されたのが始まりという。
寄っていきたいのだが、道路の反対側ですぐに渡れないし、早くさった(薩埵)峠の富士山に会いたいので我慢して通り過ごした。





←清見関跡。

白鳳年間(672-86)に清見関が設けられた際、その守護として仏堂が建立されたのが始まりといわれる。以降、足利尊氏、今川義元らの帰依を受け、今の清見寺は江戸時代に再建されたもの。

←坐漁荘跡

明治・大正・昭和三代にわたる大政治家西園寺公望公の晩年の別荘跡。政客が足繁く訪れて「西園寺詣で」「興津詣で」という言葉が生まれたほど。京風建築の建物は、現在明治村に移され、跡地は記念館が建ち、公民館として利用されている。

その記念館、今日は休刊日、いつもや!
また国道1号線に出てすすむ
磯の香りがしてきて興津の町だ。
ここには第17番目の興津宿があったところ。この宿は、東の由比宿との間に難所で知られたさった峠があり旅人には重要な宿だった。
海岸はすぐ近くにあるのだが、寄り道をするわけにはいかない。
←興津西本陣跡
広々とした道路は興津の町をまっすぐに通っていて気持ち良く歩き続ける。興津は、車道と歩道がわかれていて歩きやすい。町もきれいだ。

←水口屋脇本陣跡。


歩道横、民家の前にに東本陣跡の石碑がさりげなく立っている。
    【17-興津宿】天保14年(1843)
     
          人 口    1668人
          家 数     316軒
          本 陣       2軒
          脇本陣       2軒
         旅 籠      34軒


由比宿との間に難所のさった(薩埵)峠があったために旅人には重要な宿だったらしい。

興津の歴史・・・興津は、江戸時代の東海道五十三次のうち十七番目の宿場町として栄え、興津卿とも称されていました。現在、興津と呼ばれている地名はかって「奥津」「息津」「沖津」とも呼ばれていた。興津川の下流部にあり、東は興津川、薩埵峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置することから、古代より清見寺山下の清見関は坂東(関東地方・諸説ある)への備えの役割を果たしました。
鎌倉時代以降には、興津氏が宿の長者として支配し、戦国時代には今川氏被官としてここに居館を構え、薩埵山に警護関を設置しました。
慶長六年(1601)東海道の宿となり、以後宿場町として発展しました。興津からは身延、甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が分岐、交通の要衝でした。江戸時代中・後期には興津川流域で生産される和紙の集散地として知られ、明治以降は明治の元勲の別荘が建ち避寒地として全国的にも知られています。(説明文)

興津宿のモニュメントがある興津宿公園についた。
ここで休憩。14時13分。
資料とこれからの時間の確認をしておく。

着替えをしたいがここも通りの横で無理。
靴下だけ履き替えた。しかし、ゆっくりはできない、早くさった(薩埵)峠に行きたい!焦る。

おっ!たい焼・・・いい匂いがしてくる!
そっと覗いてみた・・・写真を撮ろうと思ったが、店内からもこちらをじっと見ていたのでまずい、パス!
きれいせ整備された町並みに広い歩道、右へ入ると海は近いと思われるがより道をする時間的な余裕がなくて残念、ゆっくりと駿河湾を眺めてみたい。

とにかく前進!


←左道をすすむと突き当りが興津駅
興津一里塚を過ぎるといよいよ由比宿へ向かうのみ、その間にあるさった(薩埵)峠が今日一番の楽しみだ、いい誕生日のプレゼントをしてくれるかどうか、とにかく急ぐ。

ここまでほぼ予定の時間通り、足にもまったく問題はないのでこのまますすむ。


通りを少しはいったところに身延街道を示す道標と題目碑、常夜灯が並んで立っていた。朽ちはてそうな道標も一体。
日蓮宗の総本山身延山への街道は、昔はここが起点だったらしい。現在は近くの興津郵便局前にかわっているそうだ。
宗像神社は、海上航海の守護神である筑紫の宗像神を勧請したもので平安中期の創建と推定されている。

ここもよらずに素通り、もったいないのだが、一刻も早くさった(薩埵)峠で富士山に会いたい!

もう、この一念!
左手に見えてきた山がさった(薩埵)峠に続くものと思う、もう少しだ、がんばろう!
左の道へすすんでいく・・・
さった(薩埵)峠まで3.2キロと表示されている。
峠の上りを考えて1時間くらいか・・・いま14時36分。
峠は15時30分頃と想定。
←興津川にかかる興津橋を渡る、歩道が狭いのでひやひや!

興津川にかかる興津橋を渡るとさった(薩埵)峠への標識が目に付いた、左の道、JRの下をくぐってすすむように表示がはっきりとしてある。こちらの持っている資料はこのままJRに沿って直進だ、自転車を押してきた男性に聞くとJRの下をくぐれという、それにそっちからどんどん人が来る・・・はて?資料が古いのか、道が変わったのか??? 
でも、ここは、確認しておいたほうがいい、多分、峠へ上る道がいろいろあるのだろうと、資料通り直進する。こちらにもさった(薩埵)峠への標識があったので安心して急な登り坂を行く。
↓海岸寺百体観世音。

だんだんと視界に太平洋が広がってきた。坂道を上がっていくと徐々に海が見えたきた、駿河湾だ!いよいよさった(薩埵)峠への上り道が始まる。100円↑

風に吹かれて残り少なくなった桜の花びらが顔にまで舞ってきて疲れをいやしてくれる。
ただ、あたりがうす暗くなってきて、太平洋の水平線と空との区別ができないくらいになった。それに曇って来た。
もう、冨士山の出迎えはないものと覚悟した。

駿河湾が目の前に広がる。一週間早ければ満開の桜でどんなにかきれいだったろう。かろうじて海と空の識別ができる程度、霞んでいる。


15時11分、予定より早くさった(薩埵)峠についた。
こんなに簡単にここまで上ってこられて拍子ぬけ。

いくら悔やんでも仕方がないが
天気がよかったらなあ・・・
さった(薩埵)峠とは・・・




それにしてもこの高さ、下から一気に登ってきたが、高い。かってここを歩いて東へ、西へ越えた人たちにとって難所だったことがよくわかる。あっけないくらい簡単に峠の最初のビューポイントに着いた。やっぱり富士山の姿はなかった。
それでも写真で目に焼き付いていた風景が広がっていた、イメージ通りだった。↓

さった(薩埵)峠とは、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関ヶ原の戦いから間もない慶長六年(1601)のことで、その後、「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記載されています。さった(薩埵)峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外淵へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。(左の説明より)
薩埵山合戦場。


このさった(薩埵)峠は、その昔は合戦の場でもあったそうだ。その合戦について興津地区まちづくり推進委員会と由比町教育委員会の説明板がそれぞれたてられていたが、ここでは、左記の由比町教育委員会のものを紹介しておきたい。
しばらくすすむと二人ずれの男女に出会った。今日が誕生日なので記念の写真を撮っておきたいと話すと“おめでとうございます”と言って親切に撮ってくれた。地元の夫婦でこの峠は散歩道にしているという、大阪から来たというと冨士山の見えないことをとても残念がってくれた。“お気を付けて”と言って自分が来た道をすすんで行った。とても気持ちのいいご夫婦だった、ありがとう。



次のビューポイントの小さな展望台に行った、ここには何人かの人がきていた、同年配の二人に声をかけた、この人たちも地元の人で車で来たという。このあたりのこと、由比宿のことを説明してくれた。昨日は、向かいに伊豆が見えたという、また、ここからの伊豆の夜景もきれいだと言っていた。15時36分。
振り返るとこんな風景・・・↑


峠の下りで夏みかんの収穫をしていたおじいさん・・・といってもこちらと変わらないかもしれない・・話かけたら夏みかんを一個とってくれた。たった一個だが、自宅まで持ち帰って食べた、みずみずしく甘くておいしかった。


ベンチで携帯電話をのぞいてみると誕生日祝いのメールが数通入っていた。ブログを読んで知ったという、とくに思いもしなかった人からのお祝いメールは余計にうれしい。
さった(薩埵)峠を降りるとそこは興津宿と由比宿の中間にあたる間の宿、間の宿西倉澤だ。一方が山、一方はJRと海。狭い一本道が曲がりながら町を貫いていた、旅人はここで一休みするか泊まってさった峠に向かったのだろう。16時ジャスト!



西倉沢一里塚跡。江戸から40番目。さった(薩埵)峠に上る坂口の手前にある。峠を上るための杖がたくさん用意されていた。

ここから宿場の名残が広がる・・・ここには昔の茶店の建物が保存され、宿場の雰囲気が漂っていた
←↓山岡鉄舟ゆかりの望嶽亭・藤屋。ここの離れ座敷から富士山の眺望が見事だったために望嶽亭と呼ばれたが、茶屋の藤屋。
幕末に官軍から追われた山岡鉄舟がここに隠れたという。


←明治天皇御小休所跡、間の宿・脇本陣の柏屋。
江戸時代から間の宿にあって柏屋と称して茶店を営んできた。明治元年及び十一年、明治天皇ご東幸のみぎりは、ご小休所に当てられた。

明治十五、六年頃、静岡県令大迫貞清が療養のため柏屋に逗留された際、倉沢の気候風土が、郷里の九州ににているところから、田中びわの種子をとりよせ栽培をすすめ、当地に田中びわが普及するところとなった。・・・説明板より




さった(薩埵)地蔵道標、大きいほうには「さったぢざう」小さいほうは「さったぢざうミチ」「延享元甲子年六月吉日」と彫られている。
間の宿・本陣跡川島屋

間の宿には十軒ばかりの茶店があって、さった峠を上り下りする旅人はここで疲れをいやし、駿河湾の景色を賞で旅立って行った。ここの西倉沢村名主を務めていた川島家は、大名がここで休憩したので本陣と呼ばれていた。
ここからは
あえて説明は入れないことにして
写真で感じていただければありがたい


(手抜きするな!?)

さくらエビ日本一という標識がいたるところに掲げられていた、ここはさくらエビの本場、今が旬なのだろうか。ゴールのJR由比駅にはほぼ予定通り午後4時半に着いた。約39,000歩。

さくらエビで早い夕食でもと駅前のさくらエビの大きな看板のある食堂に行ったら本日定休日、あー、がっかり。
4時57分の電車で静岡駅へ、新幹線こだまはすいていた、缶ビールでひとり乾杯!
思い切って69歳の誕生日にきて、楽しく歩くことができていいスタートになった。60代最後の1年、いい年にしたい!