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のんびりゆっくり 東海道シリーズ-22
こちらからどうぞ 2009.06.19 由比→蒲原→吉原

2009年6月19日(金) 「由比宿」(静岡市)→「蒲原宿」→「吉原宿」(富士市)
東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、今回は、静岡市の由比(16番宿場)から三島(11番)までを一泊二日で歩いた。猛烈な湿気を含む高温と日陰のない東海道は厳しかったが、道々、色とりどりの花に歓迎されながら完歩することができた。
 6月19日-「由比→蒲原→吉原」  公式距離 17k
 20日-「吉原→原→沼津→三島」 公式距離 24k

19日、朝6時28分の新大阪駅始発の新幹線で静岡へ、ビジネスマンばかりの車内でウオーキング姿は気が引ける、・静岡で東海道線に乗り換え由比へ向かう電車の先頭車に乗って、富士山は見えるかなあ・・・正面に見えるはずたが・・まもなく由比駅。
富士山が見えるようであれば、前回、見ることができなかったさった峠に行くことも想定していたが、目の前の太平洋もかすんでいて、こりゃだめだ!駅舎内の掃除をしていたおばさんに”こんな天気では富士山は見えませんか?”と聞いても要領を得ない、駅前のタクシーの運転手さんに聞いても、今日の天気では見えないだろうと言われた。駅員さんはいない。前回の4月13日、帰路につく時に会話した駅員さんはどうしているのかなあ・・・

諦めたが、それでも、もしかして・・・もしかして、と駅のベンチで9時半まで待った、しかし、状況は変わらず断念してスタート!
駅前通りは、ずばり「桜えび通り」、桜えびのアーチが出迎えてくれた、コースは、駅前から高台の396号線へ。知事選挙まじか。通行量が激しい396号線をすすみバス停から元のえび通りにもどり古い家並み道を行く。

左へ少し入っていくと白鳳時代に創建された豊積神社へ寄ってみた。「桜えび」と「しらす」の看板がやたらと目につく。

銀行にも桜えびがいるいる!海が近いので潮の香り、魚の匂いがする道が続く
和瀬川にかかる和瀬橋をわたる、まっすぐな道が続く。

両側の家々を眺めながら歩いていて不思議な光景が続くことに気がついた。軒先が下図のように見慣れた住宅の軒下とは明らかに違う。ほとんどの家が同じ構造になっているのに驚いた。


「せがい造り」といって、軒先を長くして、それを支えるために腕木というものが付け足されている、さらにその軒先を雨から守るため「下り懸漁」というものが作られていて、いかにも重々しい重厚な造りになっているが、明治時代からの工夫らしい。
自転車を押してきたお年寄りと目があった。
こんにちは!とあいさつしたら、このお父さん、親しそうに話しかけてきた。
大阪から来たというと、これから行く広重美術館のこと、行き方を教えてくれた。最後に、小指をたてて、”連れて来たらよかったのに”と言う。おもろいじいさんや! 
”あっしまった!これ忘れてた!”と小指をたててオーバーに言ったら大笑いして行った。元気で!
静岡にもおもろい人いるなあ・・・

いよいよ由比宿だ、今日はどんな出会いがあるやら・・・
由比川を渡る、ここが由比宿の西の入り口だったらしい。欄干に広重の絵が描かれている。すぐ下流にJR東海道線の鉄橋、その下は、駿河湾だ、潮風に磯の匂いが運ばれてくる。

由比橋を渡ると海側に常夜灯、そこをすすむと由比地蔵(入上地蔵)、四体の地蔵尊が堂内に安置されていた。

由比川を渡りしばらくすすむと左側に脇本陣羽根の屋跡、脇本陣徳田屋跡、つづいて加宿問屋場跡が続く。

洋館づくりの清水銀行由比支店は明治の郵便局の跡。本陣跡↓に入ると公園になっており一番奥に広重美術館がある。
   
【16-由比宿】天保14年(1843)
          人 口      730人
          家 数     160軒
          本 陣       1軒
          脇本陣       1軒
         旅 籠      32軒


左・本陣跡、塀の下に↑このような池になっていて川ではない。これは馬の水呑場、大名行列の馬に水を呑ませたり体を洗ったところで水深は60センチ他の本陣では見られない施設という。
←広重美術館
桜えびの食事ができるまでこの美術館で過ごすことにしてゆっくりと見学をさせてもらった。
ここで広重の「東海道五拾三次旅景色」という大判A3サイズの分厚い写真集を2600円で購入。これは掘り出し物と喜んだが、この写真集にこのあと苦しめられることになろうとは思いもよらなかった。(次の日の日記で記述)

11時になり、すぐ近くのおもしろ宿場館内のレストランで待望の桜えびの昼食をすることにした。

すばらしい席を確保(まだ、お客さんは一組)。↑これからすすむ蒲原方面↓さった峠が一望。

この「桜えび」は、この駿河湾でしか捕れない深海のえびだそうで夜になるとプランクトンを食べるために浮上してくるのを捕るらしい。
 名物の「桜えび御膳」を注文したが、とくにかきあげがおいしかった。生の桜えびの甘いのにもびっくり。1680円。
食事と景色に満足して11時50分に早い午後のスタート。←由井正雪の生家といわれる正雪紺屋(染物屋)、由井正雪は、代々ここで紺屋を営むこの家で生まれ、江戸にでて軍学者となったが、3代将軍家光の没後、混乱につけこんで叛乱を起こそうとして失敗(慶安の変・1651)自刃した。
通りすぎると「御七里役所跡」、はて? 初めて聞くことばだが、御七里役所とは、徳川家康の八男頼宣が紀州藩士となってできたもので、幕府の行動を監視するために紀州から江戸まで146里間、七里ごとの宿場に23ケ所つくった施設だという。↓
396号線の石碑だけの日本橋から39番目の由比一里塚をすぎ、由比城跡入り口前を通過。由比城とは、永禄年間(1550-)、頃まで今川氏の城があり、由比助四郎光教の居城となっていた。単調な古い街並みを蒲原宿をめざして歩く。このあたりが由比宿の東の入口だったらしい。
由比宿は規模の小さな宿場だったが、東からは難所のさった峠を控えここで休憩をとる旅人が多くてにぎわったそうだ。


神沢川橋を渡り東名高速道路の下を過ぎ、さらにまっすぐに延びた道をすすむ、汗が目に入り痛い!たぶん、30度をかなり超えているだろう、首筋が暑いというより痛い。



ここまで来るだけで、汗が噴き出すほどの蒸し暑さ・・・日陰のない通りは暑い。タオルを首に巻いて暑さしのぎ、水分補給を頻繁にするために汗ふきも忙しい。暑さで集中力がにぶってくるので、いつものことだが、一番怖いのが車!いくら気をつけても安全運転ができない命しらずの凶器が走ってくることを忘れないようにと自分に言い聞かせる。
休憩したくてJR蒲原駅へ回り道して寄ってみた。ところが駅舎内にはベンチがない、これじゃ休憩はできない、当て外れ!このあたりは片浜と呼ばれ、塩田が盛んな場所だったとか。もともと由比、蒲原は、駿河湾で開けた宿場で、主に漁業で生計をたてていたが、その中心は「塩作り」だった。

ここから光景が一変して古い家並みが伸びている、蒲原宿のはじまりだ。 396号線、沼津まで28Km  富士まで12Km
向田川を過ぎると道路わきに154という数字だけの標識がたっていたがたぶん、東京からのキロ数だろう。↓
←橋の欄干までえびさんや!
さらに396号線をどんどん歩いて行くと蒲原西木戸の標識がある角(西木戸・茄子屋の辻)を左折して裏道へ入る。
蒲原宿の西の入り口。



ここから風景は一変する、蒲原宿のはじまりだ
その名残が残っている。ここはゆっくりと歩きたい。

格子戸のきれいな増田家、醤油屋跡を整備した国登録の文化財「志田家住宅主屋」では説明役のご婦人からいろいろとこの地区のことも含めて話を聞いた。そこで東から来た人と遭遇した、お互いにエールを送って失礼する。

   【15-蒲原宿】天保14年(1843)
       
         人 口    ******人
         家 数     488軒
         本 陣       1軒
         脇本陣       3軒
         旅 籠      42軒

すぐ向かいにやはり国登録の文化財「旧五十嵐歯科医院」古い洋館の建物はとくに目立っていた。見学もしたいし、コーヒーも飲めるカフェで休憩したかったが、後の時間を考えて次へと急ぐ。



←「御殿道」というかわった名前の石碑が目についた!
徳川家康が武田氏を滅ぼして岐路の天正10年(1582)、織田信長を接待するためにお茶屋を作らせたところらしい。徳川秀忠、家光の時代まで休憩所となっていたという。
御殿道の向かいに高札場跡があり、蒲原郵便局、NTTを過ぎてさらにすすむと右側に黒塀の続く本陣跡、むかい左側に古い建物が見えてきた。

宿場の雰囲気がそのまま残っている風景に蒲原は飽きない。

本陣前の鈴木家は、安政年間(1858-1860)にたてられた旅籠跡「和泉屋」の構造をそのまま残している。いまは、鈴木たばこ店として営業している。古い手すりや看板がそのまま見られる。
黒塀に囲まれた江戸時代の蒲原宿本陣跡。
現在の建物は大正時代に建てられたもの。いまは佐藤家として使われているために中にははいることができない。


なかなか雰囲気のある、いかにも本陣!の名残が伝わる。
山居沢川を渡り右へ入り込むと広重の「蒲原夜之雪」記念碑が小さな公園の一角にあった。その絵がそのままモニュメントになっている。「蒲原夜之雪」の絵は、広重の東海道の絵の中でも特に傑作といわれるもの。この碑は、「蒲原・夜之雪」が国際文通週間の記念切手に採用された記念に地元の有志が建立したそうだ。ここで休憩。13時48分。
元の道にもどると左側に問屋場跡、そこから道の左右に古い建物・・・ナマコ壁の家が続く。
←左・・昭和まで続いたという元和菓子屋、玄関がなまこ壁で中をのぞくと中に柱がなくて広々とした店の間づくりになっている。

↓元佐野屋という商家、壁が塗り壁で、町屋に多くみられる作りで、このような町家を「塗り家造り」というらしい。土蔵造りに比べて壁の厚みが少ないかわりに防火効果が大きいという。
「なまこ壁」の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟の屋根とが、相俟って重厚感にあふれていると説明板に書かれている。


あれ?

さらにすすむと途中でなにやらのぼりを持った一団が一台の車を従えて歩いてくる・・・・ヒロシマ・ナガサキへの平和行進と書かれている・・・どんな団体なのか見た限りではわからなかったが警官もひとり付いていた・・・

うだ、もうそういう時期だ、ヒロシマ県人にはよくわかる。
「木屋」の屋号をもつ3階建て土蔵、木屋の屋号を持つ渡辺家
江戸時代末期蒲原宿の問屋職を務めていた旧家。
諏訪橋を渡ると突然左に巨大な鉄管が見えてきた!
日本軽金属の古い鉄管、アルミニュームの産物らしい。
いま使われているのか無用の長物なのか・・・しらないが。



↓14時11分。蒲原宿の東木戸」碑の前に到着。
ここが蒲原宿の東の入口になる。13時30分までの予定が40分遅れ・・


ゆるやかな坂をすすむ、このあたりは車も少なく静かな住宅地。
←北条新三郎の墓への道。蒲原城の城主だった北条新三郎が武田勝頼の軍勢に攻撃されて全滅、自刃した。
民家と民家の間に赤い祠と鳥居のある稲荷神社の真ん前に蒲原一里塚跡。これは珍しい風景!

元禄12年の大津波で流失、現在の一里塚は宿場移転に伴って移されたもの。



ゆるやかな坂を上がると小川の向こう側で写真を撮っている男性がいたので声をかけた、東京から歩いてきているそうで、しばらく話がはずんだ。どんな地図を使っているのか見せたもらった、すごい、すべて、現在の地図に旧東海道を置き換えて作った手製のもの、これなら迷うことはないだろう。この人も自分と一緒で、人のHPはその人なりのこだわりがあるので先入観を持たないためにも見ていないと言っていた。まったく同感!歩く前にじっくりと資料作りに一カ月、歩いて整理するのに一カ月かけているという。時間のある人はいい、自分のようなバタバタ、前日あわてて、明日歩く!といういい加減さでは表面的なものしか見ることができない・・・反省。とても気持ちのいい出会いだった、お元気で!
ここで左の坂道をすすむのだが、そのまま直進してゆるやかな坂道を古蹟源義経水の碑に寄ってみた。承安4年(1174)義経が東下の際、蒲原木之内神社に稲荷大神を勧請、神文棟札を記すためにここの湧水を汲んだという。
再びコースに戻ってきて、右に光蓮寺の白壁に沿って急な坂道を上っていく・・・一番疲れる時間帯、着替えをしたいが、適当な場所がない・・・汗で気持ちが悪い。水分補給をして元気を出して行こう!この程度の坂道なら任せておけ、意外と得意?なのである。もう四年にもなるが、仕事場のビルの7階まで、エレベーターは急ぐ場合を除き、階段を使って上り下りしているので少々の上りと大丈夫。

坂道は、吉野山修行体験で教えてもらった、“さんげ さんげ 六根清浄” これを繰り返しながら歩調と呼吸を整えて歩く。上りきって左へすすむと東名高速をまたぐ新坂橋へ、渡ると静岡市から富士川町となる。14時40分。
周囲は東名をはさんで小高い山。ここから曲がりくねりながら集落へと下りて行く。途中で道を確認のために中年の女性に尋ねたら間違っていなかったのに、次の曲がり角まで親切に歩いて教えてくれた。お気をつけて!このひとことがなによりうれしい。
これまで、どれだけ多くの人から、このことばをもらったことやら、人の温かさをしみじみと感ずるときだ。ミラー遊び!

新幹線のガード下を通り、どこまでも続くか、だらだら道をもくもくとすすむ、道は間違いなく歩いているつもりだが、手持ちの地図にチェックポイントがない道が続くと確認のしょうがない、慎重に歩かないと迷ってしまうので徐行になる、後半に迷ってしまうと足だけでなく、気分的に疲れとでダメージが大きいので人がいたら確認をすることにしている。
車の通行量の多い道を歩いていたら、黄色い帽子をかぶった男性一人と女性二人の三人が信号横にいたので声をかけた。
学校帰りの子供の安全管理をしている人たちだった。気さくな人達で話がはずんだ。こちらの地図を見て、これはわかりにくい!と言っていた。それはそうだ、お江戸から順路が書かれている地図を逆に歩くのだから、本を上下反対にして読むようなもの、疲れてくるといらいらしてしまう。常に止まって、体を逆にしてみる他はない。愉快なお父さんがこれから行く富士川まで、何度も何度も難しい個所を教えてくれた。でも、そんなに覚えられないよ、うれしかった。


お姉さん、ありがとね!
東名高速道路をくぐり、ここはゆっくりとすすむ。
富士見町中之郷、ボランティアのおじいさん達、写真の立っている人に声をかけたら話し相手になってくれた富士川まで何分かかるかと聞いたら”あなたは若いから20分でいけます!”と言ってくれた、若くはないよと頭によぎったが、”そうだ、若いんだ!70代の半ばに見えたその人に比べたら・・・。

20分で行けたら若い!行かれなかったら?15時23分。
しばらく民家や店の続く街並みの通りをすすむ、疲れを感ずる、妙に眠くなる・・・睡眠不足のまま早朝に出てきたからだろうか。事故に注意。こういうときは、ひとりごとで気を紛らわせること。学校帰りの子供たちの姿が目についてきた。その学校の手前を右へすすむ。富士川役場前を通るとやがて左側に大きな木が見えてきた。あっ一里塚だ!ここは岩淵の一里塚、江戸から37番目。写真、下左の塚は往時のまま、右下の榎の塚は江戸時代のものらしい。両側にそろっている立派な塚だ。

←一里塚を左に90度曲がってまっすぐすすんでいくと左に新豊院がある、ここには180反の布に描かれた聖観音菩薩があるそうだ


下校の子供たちの間にはさまれるように狭い道を車にひやひやしながらすすみ、やっと富士川に出た。16時4分になっていた。道路のいたるところに大人たちが子どもの通学の誘導をしている姿が見かけられた、ここまで東海道を歩いてきてこんなに多くの人を見かけたのは始めてだ、これなら親も安心できるだろう。

←さらにすすむと左側に長い黒塀が見えてきた。中をうかがおうと近づいていくと、木の下に腰をおろしていた小学生が、土日しか中へ入れないと教えてくれた。子供に声をかけないようにとなにも聞いていないのに教えてくれてありがとう!と言ったらにこっと笑っていた。
ここは、この地、岩淵立場の名主だった「常盤家」跡で、当時は、常盤家本陣、または西本陣と言われていたらしい
つきあたりを右折、そろそろ富士川が見えてきてもいい、右へ左へすすんでいると民家の屋根の間に富士川の鉄橋が少し見えたきた、いそいで坂道を下りていく! ヤッホー、富士川だ!
ここで大失態!坂道を下りると川との間に通行量の多い道路が走っている。地図では、道路を渡るには左、つまり川上へ少し進み歩道橋を渡ると富士川渡船場跡の碑がある、そして富士川橋へ戻ってきて橋を渡るのが正解。ところが、そっちへ向かっていると手押しの自家用車で向かってきた老婆が、地図を見ながらすすんでいるこちらに”どこへ?と聞いてきたので、とっさに富士川を渡る!と言った。それなら、信号のところで渡れるので一緒に行きましょうと言われてついつい・・・トホホ!↓信号を渡って、それでも左へ戻るようにすすめば渡船場跡に行かれるのに・・・あほや! 鉄橋を目の前に見て感激!渡って神社で休憩している時に気がついて、しまった!と思ったが、引返すのは・・・元気がない、パワー不足!
   15時57分・・・34分かかった!ここから富士山がきれいに見えると聞いていたがまったく見えなくて、この日、とうとう富士山を見るこ   とはできなかった。近くを歩いているはずなのに・・・。新幹線の富士川鉄橋からの景色がしっかり頭の中にあるので、そのイメージを浮かべると富士山の位置はわかるのだが。
富士川橋を渡って水神社で休憩。境内には「富士山道」と「富士川渡船場跡」の碑が立っていて、ここが重要な場所であったことがわかる。かって富士川は東海道一の急流として恐れられていて人々は水神を怒らせないように祈ってこの水神社を建立したと伝えられている。

ここからしばらくポイントのない道を歩き続ける、40分も歩いただろうか、身延線柚の木駅の近くへ来たが、一か所で一筋まちがってしまい元戻り、疲れてくると集中力がなくなってくる。
柚の木公会堂前の双体道素心道祖神、めずらしい。
お守りくださいと手を合わせてした左の道へすすむ。


庭先の咲いた黄色のユリがあまりにあざやかできれいだったので掃除をしていたお父さんに断って写真を撮らせてもらったら大変よろこんで話しかけてきた。
この人も気をつけてと言って見送ってくれた、同年輩の人、通じるなあ・・・


ここで予定時間より1時間以上も遅れてしまった、ゴールまで5キロもある。写真を見直しても、富士川を渡ってからの撮った写真枚数が、そこまでより少なくなっていた。花の写真が目立って多い、多分、疲れてくると花に目が行くのだろう・・・足よりも気持が疲れているのだと思う。もう、うろうろとより寄り道しないように歩こうと思うが、きれいな花をみるとついつい撮ってしまう
マンホールの蓋も富士山、すごいなあ! 交通の激しい道路わきに小さな稲荷神社。
←札が辻跡の古い石碑二つ。札が辻とは、高札場があったところ。(高札とは立札のことで幕府の発した法令などを掲示した場所、目立つ所にあった)
富士の中心街か?富士駅へ

製紙会社の工場の煙突を右に見ながらすすむと小学校、税務署、図書館等の前を通って本市場一里塚へ、江戸から35番目。まわりに花が植えられて小さな花壇の中にある。
国道1号線を渡り、しもほり橋を渡ると右側の民家の敷地と思われる庭の一角に。「鶴芝の碑」と説明板が立っている。

このあたりは、かって「鶴の茶屋」があり旅人が休憩をとっていたという、そして、ここから眺める冬の富士山は、中腹に一羽の鶴が待っているように見えたところから名づけられたらしい。
広重がこの地の茶屋と富士山を背景にした絵を描いているが、その絵に「山川志ろ酒」ののぼりがかかれている。当時、山川白酒が名物で富士山を見ながら茶屋でくつろぐ旅人が多かったのだろう。
このあたりは富士市の官庁街か・・富士総合庁舎、保険婦人センター前を通る。車以外は人影のない道をすすむ、そろそろ吉原の市街地に近付いていると思われるが、その気配はない。
17時30分になった。予定では、この時間にはゴールしていたかったのだが・・・まだ3キロほどはあると思う。18時を過ぎてしまうぞ。今夜は宿泊だから時間を気にすることはないが、汗をかいた体がなんとなく重くてゆっくりしたい。新幹線の新富士駅へ通ずる塔の木交差点を過ぎると潤井川にかかる富安橋を渡る・・・少しずつ夕暮れの気配。
橋の手前にある道祖神を見ておきたいのだが道路の反対で渡れない、パス。疲れている証拠。CASAが目印という大きな道の三叉路へきたがない、CASAがない、たぶんレストランだと思うがない、おかしい、間違っているかもしれないともう一筋左の交差点へ行くがない。人に聞こうにも人がいない。ここはうろうろしないで人が来るのをじっと待つ、日暮れてきた。なんとなくさびしくなる。自転車で通りかかった男性に地図をみてもらって現地を確認、親切に丁寧に教えてくれた。CASAはなくなってかっぱ寿司になっていた、これじゃ、みつからない。
ぶつぶつ言いながら目印の青葉通りへ向かう。青葉通りの標識を見た時はほっとした。
↓古い立て説明板と旧東海道跡の石碑が交差点角の植込みの中にあった。

中心部の青葉通りを越えて小潤井川のところでおばさんに道を確認、途中にあるお寺の名前で聞いたら右側の道だという、?
と思ったが自信をもってこちらで間違いないと言われたので行ってみたがやはり間違い、庭の花に水やりしていたお年寄りに聞いたらお寺違い!

時間ロス、引返して正しい道をすすむと妙祥寺題目碑の前へ、そこを左にすすむと大きな商店街に出た。
やっと繁華街にきた、ゴールの吉原本町駅は近いはず。

ここから吉原の街の中へすすんでいく、吉原は思っていた以上に大きな町だ。

    【14-吉原宿】天保14年(1843)
         人 口  ********人
          家 数     653軒
          本 陣       2軒
          脇本陣       4軒
         旅 籠     120軒

吉原の賑やかな商店街を通り岳南鉄道の「吉原本町駅」に18時20分ゴール、予定していた時間を1時間も遅れてしまった。
午前中を由比で過ごしたこともあるが、事前準備もせずに出たとこ勝負で歩いたつけは大きかった。まあ、事故もなく歩けたのだからよしとしよう。
 35,900歩 25.1キロ。
吉原本町駅から地図を頼りに予約していたホテルをさがして15分。やっとほんとのゴール。疲れた! 
翌日の「吉原宿」→「原宿」→「沼津宿」→「三島宿」はこちらへリンクします