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のんびりゆっくり 東海道シリーズ-23
こちらからどうぞ 2009.06.20 吉原→原→沼津→三島

2009年6月20日(土) 「吉原宿」(富士市)→「原宿」→「沼津宿」→「三島宿」(三島市)
東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、静岡市の由比(16番宿場)から三島(11番)まで一泊二日の二日目。コースは「吉原→原→沼津→三島」まで。お天気がよくて朝からほぼ快晴、昨日よりもっと暑い一日になった。●20日、午前7時15分にホテル出発。スタートになる昨日ゴールの缶南鉄道吉原本町駅へ。7時30分スタート、ゴール予定地と時間は三島市樋口本陣跡・本町交差点17時30分とした。昨夜、今日のコースは長くて30キロを超えると想定し、地図に1時間毎の到達地点を記入して、午前、午後に調整時間も組み込んだ。
さあ、スタート!昨日と違って青空、左富士が見えるかもしれない、わくわくしながらすすむ。最初のポイント、和田川にかかる平家越橋を渡ると橋のたもとに立派な平家越の碑が建てられていた。治承4年(1180)、源平の戦いで平家の軍勢が陣取ったあたりだという。源氏の迂回作戦で飛び立った水鳥の羽音に驚き、平家の軍勢が戦わずして退却したという。

ここを右へ、左富士が見える絶景の場所ということだが、東から来る場合で、西からは右富士ということになる。東海道五十三次に関する地図、資料、書籍、すべて江戸側から書かれており、西から歩くとすべて逆なので戸惑う。右は左、上り坂は下り坂・・・東海道を歩こうという人は、東から歩くことをすすめたい。「名勝左富士」の立て看板も説明板もたてられているが、振り返ってもまったく見えない


←左富士神社、ここで反対から来た男性とすれ違う。

←小さな公園にある広重の名勝左富士のモニュメント。仕方なく信号を渡り、新幹線と1号線バイパスの下を通りそのまま吉原駅方面を目指してすすむ、車の通行量が激しいところで、騒音と暑さも交じって歩きやすい道ではない。
スタートの吉原本町駅
富士はこの写真右方向に見えるはずだが雲が邪魔!
8時というのにもうかなり暑い、今日は水分補給を頻繁にやらないといけないぞ。この新幹線のガードから吉原駅前の写真がボケていて使えない、なんでやろ?歩きながら撮ったためか・・・でも、他の写真も歩きながらだけど・・・。
気合いが入ってないからかな。吉原駅前を通り東海道線を渡ってすすみながら左方面を見ると
あっ、富士山や!思わず叫んだ!見えている、見えている!次の交差点でコースから離れ左へ寄り道してすすむ、大昭和製紙の工場から煙と鼻をつく臭いは余計だったが、滝川にかかる白妙橋というところまで行くと橋の上からきれいに見えた。雪はわずかしか残っていないがそんなことは、もう、どうでもいい、会えてうれしい!いつも富士山を見慣れている人には何を?ということだろうが、やっぱり冨士は日本一の山!寄り道して35分をロスしたが、富士山に会えたので満足◎。


再び東海道へ戻って、寄りたいと思っていた日蓮宗の妙法寺毘沙門天さんの階段を上った、なかなか雰囲気のある立派なお寺。なんだかインドの仏教寺院の感じがした。
“どうか今日一日、東海道を事故なく歩けますようにお守りください”と祈願して毘沙門天さんのお守りを買ってベルトにつけた。
新幹線から見えるらしい、今度は車中から見よう。
道中のお寺や神社、お地蔵さん、道祖神さんまで、自分の旅の安全を祈ってくれていることを忘れてはいけない。手を合わせてお賽銭も忘れないように、これは普段のウォークでも同じ。
このあたりから地名に「新田」という名称が続く。
かっては湿地帯で水害が絶えなかったらしい。
この地の高橋勇吉は、天文7年の大飢饉のため、その後14年間を費やして自分の田畑や財産を売り払って排水堀を完成させた。勇吉が天文知識や土木技術に優れていたことから勇吉の掘割を「天文堀」「とよんだという。
ここから約3キロばかり、まっすぐな道が続く、暑い道をまっしぐらにすすむ、歩道がないので車道のすみへ寄るようにして歩く・・・道の両側には民家が続き庭先には、花々がきれいに咲いて目を楽しませてくれている。

今日のゴール三島まで20k、沼津まで14k、旧東海道は大きく迂回してすすむのでさらに距離がある。

道路向かい側を歩いて行く男女二人、多分、夫婦なんだろう・・・なかなか足取りが軽いぞ!東海道を歩いている人か、単なるウォーキングか?今日はこの後、ウォーキング中の人とよく出会う。

380号線を愛鷹神社前を行く↓


さらに木之宮神社、淡島神社を通り過ぎ、昭和放水路上の広沼橋から振り返るように富士を見ると、ここからもきれいに見える。
380号線をすすみ昭和放水路上の広沼橋から振り返るように富士を見ると、ここからもきれいに見える。
天保7年の大飢饉や水害から村民を救済するために原宿の増田平四郎が大排水路を完成させたのが始まり。


すぐ前を東海道線が通っているので電車と富士山のツーショット写真を撮ろうと待ち構えたが、こんな時に限り、電車はこない。
さらにすすんでいくと左手に立派なお寺が見えてきた。
立円寺だ。

ここからも富士がきれいに見えた。
ここには写真下の「望嶽の碑」があるが、これは文化5年に尾張藩の侍医柴田景浩が江戸へ旅の途中、この寺に滞在したとき、富士の絶景をたたえてたてた碑。

このあたりの右側の民家の間から松林が続いているのに気がついた。そうだ、もう、あの田子の浦海岸かもしれない、うまく海岸へ続く道が見つかればいいと思いながらさらにすすんでいくとJR東田子の浦の前にきた。
10時19分、予定では10時としていたのでかなり時間を取り戻した。ここの駅からも富士山がきれいに見える。

電線が邪魔、右の建物がJR東田子の浦駅。ここで10分。
暑さも厳しくなったので木陰に腰をおろして休憩。ここで500mlのペットボトル三本目を買う。水分補給を怠らないように。足は、昨日の疲れもなく問題はない。海岸のことを気にしながらすすんでいくと380号線からコースは左へ入っていく・・・あれ、これじゃ、海岸から離れる!

誰かに聞こうと思っても人影はない。こんな暑い時、歩いている人などいないよな。しばらく立ち止っていると正面からご婦人がきた、“すみません、お尋ねしたいのですが?”といったら“ここの者ではありません”冷たく行かれてしまった。
あー、がっかり・・・、しばらくすると夫婦らしい中年の男女がきたので尋ねたら、通り過ぎてきた東田子の浦駅の近くまでもどると海岸へ出る道があることを親切に教えてくれた、そして“お気をつけて”と一番のごちそうことばをかけてもらった。ありがとう!


松林は暴風雨林になっているのだろうか、ずっと続いている、海岸もずっと続いている、たぶん、沼津の千本松原までだろう、ただ、このあたりは砂地ではなく石ころごろごろで降りて歩くところではないみたい、歩けるのはもっと向こうなんだろう。瀬戸内の白砂の浜辺で育ったが、海のスケールがまるで違う。
松林を抜けて海岸に出た、堤防の向こうに海が広がっている。

“わー広い、伊豆半島が見える!さいこう、サイコウ!”と、ひとりではしゃいだ。風が強い!

←伊豆半島     ↓千本松原方面と伊豆半島


来た方向、吉原、蒲原方面、山並みの左へ行くとさった峠あたりだろう。美保の松原はこちらのようだ。
山部赤人の詠んだ歌はいまでも覚えている

   「田子の浦 ゆうち出でて見れば 真白にぞ
         富士の高嶺に 雪は降りける」

少し早いが、この絶景を見ながら堤防に腰をかけて弁当を食べた。田子の浦海岸と伊豆半島。10時45分から11時7分まで海岸の堤防で休ませてもらった。


自転車で通る人が多い、歩くにはアスファルトでよくないかもしれないが、まっすぐで信号がないので自転車にはいいのだろう。

ここで予定時間を大きく遅れてしまった。ただし、昼食時間が不要になるので、午後のスタート地点までに取り戻すことにして、再びもとの道路に戻ってここから一気歩き。
振り返るように見ると富士山が見える、気持ちいいなあ・・・
さようなら!ありがとう!富士市さん
歩いてきた道を振り返る。
こんにちは!よろしく!沼津市さん
R東海道線の踏切を通過して、しばらく並行して歩くこの通り線路もまっすぐに伸びている。一番暑い時間帯。

日陰がほしい。




わーきれい!道路沿いの民家の花壇。

 
 ↑ 沼津市花いっぱいコンクール
    市長賞(モデル花壇)


この沿線の家々からきれいな花がさくさん見られるのは、沼津市の花いっぱいコンクールというイベントの影響があるのだろう・・・

ここには限られた写真しか載せていないが花の写真はたくさん撮った、とくに紫陽花はいたるところに咲いていた。
163号線をすすむ。

←浅間愛鷹神社

←大通禅寺、ここには、門前のスペースに坂村真民
さんの言葉が石碑になってたてられていた。



←三社宮
あっ、オアシスが見えてきた!?休憩しょう!と思って急いだが、大きな木の下は、いっぱいのアリが占拠していて腰を下ろせず汗をふいて、水分を補給して・・・このあたりに原の一里塚があったらしい。いまは説明碑のみ。

  だれだ、おしっこしてるやつ!!
  沼川第二放水路にかかる新田大橋を渡ってすすむ。

向こうから女性がひとり・・・思わず大丈夫?と声をかけてあげたいくらい、疲れているようだ、会釈したが気がつかなかったのか、とぼとぼと行ってしまった、こんなに暑いのに歩かんでもええのになあ・・・

おいおい、お前もそう思われているぞ!がんばれ!
右へJR原駅の地点にきた。信号横の時計が12時15分を指している。12時20分。近くの浅間神社で休憩。このあたりが旧原宿の中心だったと思うが、その面影はない。天保9年(1878)に大火がり再建されなかったらしい。いまの町の規模も小さい。
    【13-原宿】
天保14年(1843)
         人 口      1939人
          家 数      398軒
          本 陣        1軒
          脇本陣        なし
         旅 籠       25軒


←原駅。予定ではここから午後のスタート、12時40分としていたが、ほぼ、その時間通りだった。
問題は、疲れの出る午後をいかにうまく歩くことができるかどうか・・・幸いなことに、これからすすむ午後の沼津市の東海道も一直線、迷うことはないだろうし、道探しに時間を大きく浪費することもないだろう、しかし、気を引き締めて、とにかく、歩道のない道が続くので、事故にあわないように車にだけ注意!


浅間神社で休憩、水分をたっぷりと補給。午後のスタートは、白隠禅師の誕生地と墓があるゆかりの松陰寺を訪れた。臨済宗の名僧として知られる白隠禅師は、この地に生まれ、15歳で松陰寺で得度、諸国を修行し享保2年(1717)に松陰寺の住持となった、参勤交代の際、大名が白隠禅師をよく訪ねたそうだ。

白隠禅師の墓・静岡県指定史跡

晴れ渡ってかんかん照りの道はますます暑い、男女二人ずれのウォーカーにあったが、あいさつがかえってこなかった、暑くて疲れているのだろうと思った。

自分が歩いてきた道を振り返ると・・・

JR東海道線の踏切に出た、振り返ると富士山が見える。また、その気になって電車が来るのをじっと待った、日陰のない線路わきで5分も待っただろうか、電車が来た、ラッキー、しかし、撮った写真を見たら富士山は電車に隠れて入っていなかった。

シャッターが遅れたのだ。あー残念、ばかばかしい!とぶつぶつじいさんをしながらまた、歩く。このあたりが、地図上では、今日の中間地点、予定通過時間が13時10分のところ13分、ほぼ、予定時間通り。
←道路の向かい側、リュックを背負った男性がレストランのメニューを覗いている。かなりの年齢と見受けたが・・・マスクをしている?  旧道でよく見かける火の見櫓↓

←祥雲寺、臨済宗のお寺。13時23分。136号線
相変わらずまっすぐな暑い道が続く。

←蓮窓寺。13時36分。
今日のコースはこのあたりが中間地点。

←栄昌寺、13時44分。三島神社、祥雲寺を過ぎJR片浜駅前を通りさらに直線163号をまっしぐらにすすむ。八幡神社で5本目の水を買って休憩していると50歳くらい男性が声をかけてきた。大阪からここまで歩いて来たことを話すと驚いていた。タクシーの運転手さんだそうで、さすがに詳しい、これから先のことを説明してくれた。この人にも“気をつけて行ってください!”と言われた。みんながそう言うのは、ひょっとして、こちらが年寄りだから労わってくれているのかもしれない?本人は、大丈夫と思っていても、人からみると気になるのだろうか・・・うーん、そうなんかなあ・・・。

境沼津藩領。上説明板の趣旨は次の通り・・・安永6年(1777)水野出羽守忠友は、二万石の大名として十代将軍徳川家治から沼津に城地を賜り、築城を命じられた。翌安永7年、韮山代官江川太郎左衛門から城地を引きつぎ、沼津藩創立と共にこの傍示杭を設置した。棒示とは、江戸時代、天領や私領の入り組んでいるところでは、人々の領域の所在をはっきり知らせる必要があり、そのため街道の傍らに立てられたものだが、この傍示杭は、当時沼津藩の西境に立てられたものだが、明治末期頃に折られて下半分が失われている。14時16分。予定時間が14時10分、まずまず。 ↓芸術家舟仙之墓。
←新中川にかかる間門橋を通過。↓妙傳寺。

←六代松是より一町半の石碑。六代とは、平維盛の子供で平家没落後一度は助けられたものの結局処刑されてしまった不運の人だという。
さらにまっすぐな道が続く、歩道のない車の通行量の激しい道だ。コンビニによって凍ったペットボトルを買って、顔や首筋にあててすすむ、人からみたら、一体なにをしてる?と思われるだろ、顔がほてる、熱いのだ。左のほほに当て、右に当て、ひたいに当て、首筋に当て・・・歩きながらそれを繰り返す。交差点で小学生が不思議そうな顔をして見ていた。←夫婦なのだろう、男女二人ずれとすれ違ったが、二人とも下を向いたままでまったくこちらを見なかった、疲れた様子・・・
こちらも疲れを感じているのだから。
延命地蔵尊にお参りして!!

←出口町見付外沼津宿の出口に当たることからつけられた。宿の出口には、見張り番所として設けられたところ、西外側の土地ということで西見付。163号線、幸橋手前の自販機で6本目、ここで同じように自販機に来た男性と立ち話、と言ってもこちらは腰をおろしていたが・・・この人も大阪からと言うと驚いていた。大阪に居たことがあると言っていた、以外とそういう人に会う。お決まりの“気をつけて・・・”と言われた。うれしいね!
このあたりからにぎやかになっていく、浅間神社の交差点を左に入っていくと千本浜通りと標識が出ていたので千本松原に行けるかもしれない、残念だが、そこまではとてもいかれない。

背中の重さがこたえてきた、30Lのリュックに着替えや書類、資料、関係本、携帯・デジカメの充電器からパンとかバナナ、お茶までたっぷり入れた上に、昨日買った広重の大判の分厚い本も入っているために重い。
次の交差点、静岡銀行角を左折するのだが、静岡銀行はなくなっていた。このあたりは沼津の中心街なのだろう、商店街が続く。通りに本陣、脇陣跡の碑がたっている。このあたりが、旧沼津宿の中心だったのだろう。



沼津は江戸時代、水野氏の五万石で栄えた城下町だから独特の紆余曲折した道になっている。城下町と宿場があった町はどこも同じだ。次の信号を右折してゆるやかな坂道を下っていく。中央公園横で休憩していると、多分、東海道歩きだろと思われる男性にあったので目礼したが、反応がなかった。お互いに疲れる時間帯。大きな通りに出て歩道橋を渡り360号線をすすむ・・・・市街地から少しずつ離れていくのがわかる。脇道をしばらくすすみ再び360号線にそって坂道を上っていく、後ろ左からの直射日光でほほが痛い、氷はとけてしまってなすすべもなく、汗をぬぐうタオルも朝からの汗でぬれてしまった。ここが一番疲れを感じたところ。東下石田交差点に16時2分着、ここの予定時間が16時、ほぼ完ぺきにすすんでいるのに安心。
     
     【12-沼津宿】
天保14年(1843)
       
         人 口    5346人
          家 数   1234軒
          本 陣      3軒
          脇本陣      1軒
         旅 籠     55軒


本町で右折し次の交差点を左折するとモニュメントが並ぶさんさん通りに出た。
三枚橋城外堀跡・・・戦国時代の天正10年(1582)に武田市が三枚橋城を築いてから城下町となった。

次の信号を右折してゆるやかな坂道を下っていく。中央公園横で休憩していると、多分、東海道歩きと思われる男性に会ったので目礼したが、反応がなかった。380号線にでてしばらくすすみ秘儀へ入ると↓玉砥石の石碑と一里塚へ。玉砥石とは、玉類を磨くのに用いられた砥石で保存されている。

日本三大仇討ちの一つ平作地蔵尊浄瑠璃「伊賀超道中双六」に出てくる沼津の平作に縁の深い地蔵尊として知られているとか。
大きな通りに出て歩道橋を渡り360号線をすすむ、市街地から少しずつ離れていくのがわかる。脇道をしばらくすすみ再び360号線にそって145号線の坂道を上っていく、後ろ左からの直射日光でほほから首筋が痛い、氷はとけてしまってなすすべもなく、汗をぬぐうタオルも朝からの汗でぬれてしまった。ここが一番疲れを感じたところ。

東下石田交差点に16時2分着、予定時間が16時、ほぼ完ぺきにすすんでいる。
←従是西 沼津領の傍示石の石碑
ここが沼津の東の境、ここから沼津領であったということ。



↑隣にある潮音寺。

←亀鶴之碑、観音堂。
さらに145号線をすすむと黄瀬川にかかる黄瀬橋に
出る、歩道がなくて危なくて・・・必死で小走りですすむ
360号線から145号線へとすすむ、

智万神社を過ぎると左側に松並木が見えてきた。松並木は久し振り、しばらく見なかったなあ・・・今年、初めてじゃないかなあ。
もしかしたら岡部宿以来かも・・・
久しぶりの松並木、お疲れ気味・・・
下を向いたまま・・・向い側を行ってしまった!珍しく手にカメラ。
黄瀬川を渡り頼朝、義経の対面石があるという八幡神社へ寄った。治承4年(1180)10月、頼朝が黄瀬川の宿に陣した時、奥州からかけつけた弟の義経と対面、互いに懐旧の涙を流したという。その時に腰かけたふたつの石が、対面石として八幡神社境内の奥に残っていた。

神社の入り口の階段に腰を下ろして靴を脱いで足を休ませていたら、50歳くらいの男性が話しかけてきた。写真を撮ってあげようという。変わった人やなあと思いながらお願いしたとき、バスがやってきて、それに乗るので気をつけて行ってください!とあわてて乗って行った、そこはバス停だった。バスから手を振ってくれてた。こんな出会いもあるから東海道53次ひとり歩きは楽しい。

←あっ!はじめて「東京」に出会った! とうとう、こんな遠くまで来た!!
国道1号線を渡り、少しすすむと左右に大きなお寺が見えてきた。宝池寺、玉井寺。そのどちら側にも伏見一里塚があり、左宝池寺のほうは復元されたものだが、右の玉井寺側の一里塚は原型に近いものとか。

ここでデジカメのバッテリーが切れてしまった。今日は三つ目で、しかも三つ目は買ったばかりのバッテリーなのにそんなはずはないと、何度も入れ変えたりしてみたがダメ、多分、デジカメの本体に問題があるのだろう、そうこうしている間にとうとう予定時間を15分も過ぎてしまった
左の常夜灯は、弘化3年(1846)に建立されたもので両側に秋葉大権現と富士浅間宮と刻まれている。いずれも火を鎮める神様。防災の願いをこめて作られたもの。
家と家との間にわずかに残る小さな川が「千貫樋」というらしい。
天文23年(1554)に今川・武田・北条の和睦成立時、北条から今川に引き出物として小浜池の水を樋を通して駿河の国へ引いたもの。現在は鉄筋コンクリートになっている。

ここらから古い商店が続く、秋葉神社前を通りゴールの本町交差点をめざす。秋葉神社前に西見附跡の碑が立っている。
伊豆箱根鉄道の三島広小路駅横を通り、江戸時代、宿場の人々に明け六つ、暮れ六つを知らせた「時の鐘」に寄った。少し奥まった先に時の鐘があるらしいのでたまたま出会った女性に確認したらまちがいなかった・・・ところが、そのご婦人が小さな声で話してくれた。あのあたりにたむろしている人には気を付けてください"
確かに異様な雰囲気、数人がグループになって、あちこち座り込んで何か飲んでいる・・・近くに行くと外国人であることがわかった。この写真一枚だけを撮ってあわてて引っ返してきた。
秋葉神社前を通りゴールの三島市本町交差点の樋口本陣跡をめざす。源兵衛川のほとりに三石神社がありその一角に時の鐘がある。↓


商店街に跡ある樋口本陣跡。↑↓向かいに世古本陣跡がある。
  【11-三島宿】天保14年(1843)
          人 口      ****人
          家 数      398軒
          本 陣        2軒
          脇本陣        3軒
         旅 籠       74軒


樋口本陣跡のある本町交差点に17時40分にゴール。

予定より10分遅れたが、ほぼ、予定通りに歩くことができた。
ここからJR三島駅へ、15分ほど歩いて駅についた。駅で着替えをして18時26分の新幹線こだまに乗って、そのまま乗り換えもせず帰阪した。車中では、三島駅で買った沼津の駅弁「港あじ鮨」と缶ビールで二日間の慰労会をした。この沼津のあじ鮨はおいしかった。   この日の距離数-吉原→原→沼津→三島 約46,600歩 32.6k
あれだけあこがれて、目標にして追い続けてきた富士山が振り返っても見えなくなっていた。朝は、横をみるとやや後ろに見えていた富士山がだんだんと後方になっていく・・・69歳のじいさんの小さなたった一歩でも積み重ねていくと一日で大きな前進になる、魅力のあるゴールさえ見つけておけば、こんな怠け者の老人でも、一歩を踏み続ける限り、ゴールに近づいていることがわかる、わかれば楽しくなる、その連続でとうとう三島まできた。63歳から始めたリレー式ウォーキングを自分のウォーキングスタイルの中心において多くのことを学んでいる。歩くことは、人生そのもの、歩き方と生き方は同じこと、あきらめてはいけない、一日一歩、めざすところにすすむだけでよい、つないで、つないでリレーしていけば、ゴールが待っている。そう自分に言い聞かせてこれからもお江戸をめざす。次回、いよいよ箱根の関所に向けて厳しい山登りかもしれないが、面白い、受けてやろう!