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のんびりゆっくり 東海道シリーズ-24
こちらからどうぞ 2009.09.05 三島→箱根

2009年9月5日(土) 「三島宿」(静岡県三島市)→「箱根宿」(神奈川県箱根町)
●東海道五十三次ひとり歩きシリーズ‐24回、25回
今回は、いよいよ後半最大の難所・箱根峠越えを二日間でチャレンジすることにした。
★初日は静岡県三島(11番宿)から箱根(10番)西坂みち
★二日目、箱根から小田原(9番)まで 東坂みち
●青春18きっぷを使って前日4日に三島着、水のきれいな三島市内をさらりウオーキング、そして前回歩いてきた東海道のコースの一部を歩いてみた。
●5日は前泊したので朝のスタート時間に余裕ができた、ホテルでしっかりと朝食をとり準備万端、いよいよ東海道五十三次の後半最大の難所、箱根八里、楽しみにしてきた箱根路へいどむ。どんな歩きができるか、どんな出会いがあるか、わくわく。
●8時10分に三島駅前のホテルを出て周辺を足慣らしの散策をした後、前回ゴール&今回スタートの三島市本町交差点へ。8時30分がスタート時間、見上げる空には雲ひとつない快晴、9月になったとはいえ、残暑は厳しい。暑くなりそうな予感。
◎箱根までの距離から判断して、時間的には無理はないだろうと判断、それに多くの人が歩いている箱根路だから標識は整備されているはず、道中でそんなに迷うこともないだろう、だから、あえて時間は気にしないで、自由に歩くことにした。
最高位地点の箱根峠は846メートル、これから歩く箱根路西坂のみちはその箱根峠まで上り続けていく。しかし熊野古道のきつい上り下りを経験しているので、それ以上ということはないだろう。
天気も心配なさそうなので、楽しく、楽しく歩いて、いい思い出をつくりたい、しかし、油断をしないように、トラブルがないように、しっかりと歩きたい。富士山が見えたらいいのだが。
8時30分、さあ、スタートだ。

↑三島市本町交差点、8時30分にスタート!
スタートしてすぐ右の通りの目立たない建物の壁際に問屋場跡の石碑と標識が立っていた。
説明によるとここにあった問屋場は、箱根、小田原に比較して交通量が多かったこの三島宿ではこの問屋場一か所だけ、すべてをこの問屋場で賄っていたためここで働く役人や人足は相当数いたといわれ人手不足をかこっていたと史料で残っているらしい。
まず、すぐ近くの三島大社へ

創建は明らかではないが、鎌倉時代には関東総鎮守として源頼朝や多くの武将の崇拝を受けたそうだ。
鳥居をくぐり広大な敷地をすすむと一番奥に重要文化財の立派な本殿が配置され風格のある神社だ。

おーラッキー、花嫁さんだ!
縁起がいいぞ。
9時10分三島神社をあとにして、まっすぐにすすむと大場川にかかる新町橋へ。

↓この新町橋は三島市眺望地点でここから眺める富士山のビューポイントであると橋の中央部分に説明がされている。ここからの眺めが広重の絵にもなっている。この橋が三島宿の東見附、出入り口になっていたらしい。



 
京都まで383Km
 東京まで112Km
新町橋からの富士山は、すそ野は見えているのに残念ながら頂上は雲にかかってみえない、よし、雲が行くまで待っていようとしばらく眺めていたが雲は動いてくれない。かんかん照りの橋の上で待ち続けるのには暑すぎる、それでも10分くらいは待っただろうか、少し場所を移動することにして民家の間の細い道を入って行った、通りかがりの女性に会ったので聞いたら、これでもよく見えているという、雲は風次第だから待っても動かないかもしれません、でも見えるように祈っています!と言ってくれた。うれしいことば、やさしい三島の女性、ありがとう。
↓畑の中で待ったが雲が動く気配はないので悔しいけれどもあきらめてすすむことにした。
 新町橋からさらにすすむと愛宕橋へ、橋を渡ると坂道になってきた、このあたりから最初の【今井坂】がはじまる。
 JR東海道本線の踏切を渡りさらにすすむと急勾配の上りになっていく。★道標【河原ケ谷・箱根旧街道入口】

箱根旧街道は、1601年から江戸幕府により江戸から京都まで整備された東海道の一部です。両側には松や杉が並木として植えられ通行の人や馬を保護し、また一里塚を築いて旅人の目安としていたようです。この旧街道は急な坂道なので、人も馬もすべって大変なところでした。そこで幕府は、1680年に、それまでの竹を敷いてあったものから、石を敷きつめて「石畳の道」に改修したものです。


その石畳を1769年に補修した記録によると「愛宕坂
では、長さ140m、幅3.6mを修理した」とあり、当時の道幅がわかります。
現在、この道は石畳風に整備されている所と、その下には往時(昔)
の石畳が埋まっている所とがあります。
ここでは、両側の松並木敷きのうち、南側の並木敷きだけを復元したもので、この先の初音原の松並木に続いています。


江戸時代には、現在の東海病院の敷地には愛宕社ほかの社寺がありましたが、現在は、「愛宕山」と刻んだ碑だけが頭上のこんもりとした小山に残っています。
平成五年五月 三島市教育委員会
(愛宕坂の解説板より
雲助備前繁の墓↓、三界万霊塔、馬頭観音の像
雲助」とは問屋場で登録をされて仕事を割り当てられ働いていた人足のこと、他に馬をひく「馬子」、かごをかつぐ「かごかき」が箱根の各地にいたそうだ。備前繁雲助はリーダーだったらしく大名の人足に乱暴を働き、切られたそうだ。

坂道を上がりきると、風景が一変、道路を挟んだ両側に松並木がずっと続いている、この松並木は国の指定史跡になっている。
←左・箱根大根の歌碑
右・道標【谷田・松並木】
石畳が整備されて松並木は遊歩道のように続く
この松並木は「静岡県まちなみ50選」に選定されている。↓
三島市に唯一残る初音の松並木、1キロをすすむ。

←歩道橋の上から富士山が見えるはずなのだが、残念ながらここでも雲がかかったまま、雲さえなければきれいに見えるところなのだろうが残念、残念!


こんなに天気がよくても富士山が見えるとは限らないことはわかったが、これから先、ちょっとでも顔、いや頭のてっぺんを見せてほしい!


錦田の一里塚にきた、日本橋から28番目の一里塚。道路を挟んで両側に一対として昔の姿を残しており国の指定史跡となっている。
整備をし旧東海道の面影を残した初音ケ原の石畳をすすむ。
←箱根八里記念碑「日々うらら松の道場の一里塚」
1号線に出てしばらくすすみ信号を渡ろうとした時、後ろから来たウォーキング中らしい男性が抜いて行った。

大きな木が二本見えてきた、箱根路と彫られた石碑が横たわったいるところを手持ちの資料では左の道へ進むようになっているが通行止めになっていて入れない。仕方なしに男性の後を追うようにまっすぐすすむ。最初の左へ入る道を進むが男性はそのまま直進して行った。
最初の左へ入る道をすすむと本来の道に通じていて、そのまま上りが続く静かな集落をどんどんとすすむ、かなり暑い。
道標
【塚原新田・自転坂】

坂を上がると木々が生い茂った森の中へ進んで行く。
ここから【臼転坂】が始まる。
臼ころばしの坂とは、牛がこの道で転がったとか、臼を転がしたため、この名がついたといわれている。

↓馬頭観世音碑


竹の茂る落ち葉の道はトンネルのようで日蔭になって歩きやすくありがたい、ただし、あっという間に通りすぎると再びかんかん照りの車道に出た。

また、日蔭のない道を上っていく、かなり暑い!
しっかりと水補給をしながら上っていく、10時40分になった。

赤い屋根の地蔵堂、この生垣の中に六地蔵があった。
六地蔵は地域信仰の六つの道を表しているらしい。


地蔵堂の壁には、写真や絵が飾ってあって軒下美術館と表示されている。このあたりの民家でよく見かけ軒下美術館、グッドアイディア。多分、地域の人たちの作品なんだろう。
少しすすむと法善寺の道標があった。日蓮宗のこのお寺には題目石や七面の石灯篭等があるらしいが、先にすすむ。
【市の山新田・題目坂】
の道標から階段を上る。
ここからが【題目坂】だ。

←征夷大将軍足利尊氏建立 七面堂旧祉。


     →馬頭観音

題目坂の途中でみかけた。
題目坂を上ると左に学校が見えてきた。広いグランドの坂小学校。フェンスにそってすすむと左側に公民館が見えてきた。ここで最初の休憩にした。ちょうど11時。

休憩していると二人の男性が上から下りてきて下って行った。箱根から下りてきたのだろうか・・・こんにちは!とあいさつしたら、こんにちは!と返ってきた。気持ちがいい。
今日は、箱根のゴール・箱根関所入口まで、までどれだけの人と出会うか、
写真に撮ってみることにした。

学校のグランドの向かい側に法善寺旧祉。↑

このあたりが【大時雨・小時雨坂】らしいが標識はみかけなかった。←ここが三島市眺望地点・視界が広がる、穏やかな風景。富士山はずっと左方向になる。また、車道に出てしばらく暑い道を上っていくと三ツ谷下バス停へ。

この暑さ、8月の真夏に来なくてよかったと思った。平坦な道はなくて、ずっと上りが続くのでやはり暑さはこたえる。それでも←ミラーひとり遊びで気分転換をまだ余裕。
↑さらにすすむと、日蓮宗松雲寺前に行く、幕末に徳川14代家茂、15代慶喜等、徳川一門の寺本陣になっていた。明治天皇御小休所ともなり碑が建っている。江戸時代は、東海道を往復する尾張、紀伊をはじめ西国大名の休息所にもなっていたところだ。
←民家の軒下の美術館
 ↓こんにちは!下りていく人。

【三ツ谷新田・こわめし坂】


さらに行くと三ツ谷新田・こわめし坂の道標に着く。

ここから急な坂といわれる【こわめし坂】が始まる。

こわめし坂とは、急勾配で背負った米も人や汗や蒸気で蒸されて、ついに強飯のようになるからだという。
箱根西坂で第一の難所といわれており勾配が20%から40%あるというが、ほんとうにきつい坂だ。ゆっくりと上る・・・汗がしたたる。

心拍数をチェックしながら、無理をしないように、呼吸を整えて上って行く。


一気に上がって行こうと思ったが、やっぱりきつい、途中で立ち止まり、振り向くとその急勾配の程がわかった。11時38分。
このあたり、静かな住宅街が続く、まるで箱根の峠をめざす途中でこんな雰囲気を中を歩くとは想像もしなかったのでびっくりした。



坂道を上りきる手前左にかなり古いと思われる道祖神と馬頭観音の像が佇んでいた。箱根を行き来する人や馬の安全を見守ってきたのだろう。手を合わせて通してもらう。
こわめし坂はここまで(ここから)それにしてもきつい上りが続いた。次の目標は、笹原一里塚。
箱根までは、まだまだ序の口あたり・・・本格的な峠の雰囲気ではない、早く、箱根峠らしい雰囲気を味わいたい、と生意気なことを考える。


坂道を上がりきると1号線に出る、道路をわたって直進。

道標【笹原新田・笹原一里塚】


あっ、後ろからひとり・・・すっと抜いて行かれた。しっかりした歩き、半ズボンでかっこいい!
この人も両手に何も持っていなかったのでここをよく知っている人なのだろう。
国道1号線を横切ってまもなく、笹原の一里塚が見えてきた。ここまで三島から6キロ、これから箱根峠まで9キロとの表示。
11時49分。こんもりとした塚に大きな木が一里塚の雰囲気を十分に残している。



一里塚のすぐ下に史跡箱根旧街道の石碑が立っているのでここで写真を撮ってもらおうと次の人を待つ、5分も待つと下ってくる人がいたのでお願いしたら快く撮ってくれた、すぐそのあとにも一人下りてきた。結構歩いている。

↓下の左の人が気持ちよく撮ってくれた。
しっかり水補給をして再び、石畳の道をすすむ、たまたま、左(東)の景色が見えた、ずっと後方にかすかに町が見える。三島なのか・・・かなり上ってきたことが確認できる。いい景色、この通りの快晴。



道標【笹原新田・笹原地区石畳】
このあたりの石畳も整備されたもの。


←1号線東京から110.4k・・・1号線に合流するが、また石畳の道へ入っていく。同じような道を繰り返していく。
道標【笹原新田・上長坂】



笹原新田・上長坂の道標から「かみなり坂」を目指してすすむ、最後の階段は急できつかったが、階段をのぼっていると上からドングリが風に吹かれておちてきた頭に当たった・・もう秋だ。


←階段を上がると1号線に出た。道路を横切るのには右へ迂回していかにければならない。横切ればすぐ向かいなのだが、ここは遠まわりになるがぶつぶつ言いながら迂回した。
写真のように急カーブの1号線を右へしばらく迂回して、向かいのドライブイン側に渡る。12時20分、おなかはすいていないがコーヒーが飲みたい、水の補給もしたくて立ち寄った。せっかくだからとなめこおろしそばを注文したが出てくるまで時間がかかった。結局店を出たのが13時5分になった、まいった。


芭蕉の句碑

 
霧しぐれ

 富士を見ぬ日ぞ

 面白き



富士見平の食堂前の一角にこの芭蕉の句碑が立っている、残念ながら・・・今日は富士を見ぬ日だ・・・


道標

【山中新田・富士見平】


店の左側から再び石畳の道をすすむ。

ここらあたりを富士見平というらしいが富士山は雲に隠れたまま、これ雲隠れ!空には雲がないのになあ・・・とつぶやきながらすすむ。木々がトンネルをつくって日蔭にしてくれている、風が静かに吹き抜けていく・・・アー気持ちがいい

再び1号線に合流して道路に沿ってすすむ。暑い!

看板の通り、しばらく直進して道路を右へ渡る。

←そして杉林の街道へまっすぐに入っていく

弥次さん、喜多さんも歩いている!
ここ腰巻地区の石畳復元・整備・・・説明板から一部

三島市は貴重な遺産である石畳の活用を図るため、この腰巻地区、約350mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成6年度(1994)に復元・整備した。発掘調査の結果、石畳は幅二間(約3.6m)を基本とし、道の両側の緑石は比較的大きめの石がほぼ直線的に並ぶように配置されていた。基礎は作らずローム層の土の上に敷き並べたもので、石材はこの付近で採石したと思われる。偏平に剥離する安山岩を用いていた。調査の結果を基に、管理のための下部基礎を設け、石畳がよく残っていた所約60mの間は、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の少なかった所や全くなかった所約290mの間は、江戸時代の石に加え神奈川県根府川町の安山岩で補填した。


←司馬遼太郎さんの箱根八里記念歌碑

「幾億の足音が坂に積り吐く息が谷を埋めるわが箱根にこそ」


道標
【山中新田・腰巻地域石畳】


ここからはきれいに立ち並んだ杉林の中を整備された石畳が続く腰巻地区をすすむ。


これが描いていた箱根路だ、しっかり歩かせてもろおう。
山中新田・山中城跡の道標の立つ国道1号線と合流。山中城は、天正18年(1590)天下統一をめざす豊臣秀吉の7万の大軍に小田原北条氏の山中城は半日で落城したことで知られている。道路の両側に城跡が広がっているが、二の丸、北の丸跡と天守閣櫓跡を訪ねてみた。
山中城跡の三の丸の掘りまで行ったところで引き返して街道を少し行くと左手に階段があり上がっていくと芝切地蔵さんのお堂があった。→
境内の切り芝を積んで念ずれば病気が治るという言い伝えがあったらしい。旅人の行き倒れを供養して建てたお堂。
さらにすすむと山中城祉碑と鳥居の前についた。
階段を上っていくと途中に駒形・諏訪神社があった。
諏訪神社は山中城の本丸に守護神として祀られていた。

←さらにすすむと一番高いところに天守櫓跡があった。

らせん階段を渡って杉林の道に向かう。こんにちは!

道標【山中新田・山中城跡】
山中城祉石碑の道路向かい側に渡る
史跡箱根旧街道の石碑前から杉林の道へすすんでいく。

杉林の中に続くに石畳の道、入口にお墓に徳利の形が刻まれた雲助徳利の墓があった。盃と徳利が浮彫りされていることから「トックリの墓」とも言われているそうだ。久助という終生酒を愛した雲助の頭役の死をいたんで仲間の雲助や土地の人々によって建てられたという。

ここから杉林の中の石畳へ入っていく・・・


            こんにちは!若い人。
整備された石畳をすすんでいく。どんじん進んで・・と言いたいが、歩いてみるとほんとうに歩きにくい、常に足元を見て歩かないと、つまづいたり、踏み外したりする危険性があるために、周囲の景色を楽しむのは半分、目線は下ばかり。石畳の街道が続く。
←ここでまた一人の男性とすれ違った。
こんにちは!
風で杉が揺れて上のほうでぶっつかることによって起こるのだろうが、鳴き声のような音、きしむ音、うなるような音が気味悪い・・・まるで人間か動物の鳴き声、叫び声のようで、早く通りすぎたいと思った。これ、夜だったらとても通れないだろう。

いまは周辺の林もそれなりにきれいに整理、管理されているはずだが、昔は木々が生い茂って、さびしいみちだったに違いない。

石畳は続きやがて1号線へ上がる階段に行く、ここで整備された願合寺地区石畳は終わる。

道標
【山中新田・願合寺地区石畳】

ここまで上ってきて、ここの石畳が一番長かった。しかし、ここまでよく整備したものだ。
やっと杉林の続く石畳を通りすぎて突き当たりの階段まで到達した。階段を上がるとそこは1号線、そして函南町の標識が目に入った。14時5分になった。



しばらく道路にそってすすむ、途中で夫婦らしい二人ずれとすれ違った。10分ほど歩いて1号線を左へ横切り、まっすぐすすむと民家の前に出た。民家の庭先を通って笹林の続く道を上がって行く。このあたりが【小枯木坂】なのかなあ・・ここからが【大枯木坂】らしい。午後も2時を過ぎ、行く手左側が笹の壁になっていて日が当らず風が流れてきて気持ちがいい。

男女二人が元気のいいあいさつをしてすれ違って行った。

しばらく足休憩、靴も靴下も脱いで風にあててやらねば。右側は視界が広く、山々の木々がきれいで気持ちも安らぐが、水がなくなった、これは困った。続いて若い女性がすれ違って行った。

こんなところを女性が一人・・・・


【大枯木坂】から次は【石原坂】へすすむ
石ころごろごろの石畳にはまいった。このあたりから、石畳はずっとこのような不揃いのごろごろ道が続く、多分、これからは整備されていない昔のままなのだろう。

足をくじいたりしないように、石を選んで踏んでいくことに集中、自然とスローウォークになる。

さらにすすむと大きな岩が左手に出現してきた、念仏岩だ。
岩の前に、かすかに南無阿弥陀仏と彫られているのがわかる碑がある。行き倒れた人を供養して建てたものと思われる。→14時38分。


このあたりは【石原坂】
それにしても古い石畳がどこまでも続いている。両側も笹の多いうっそうとした景色が続く、壁のようで中はまったく見えない。
この時間だからいいものの暗くなったら気持ちわるいぞ・・



おっと、こんなところを走ってきた人がいる。
こんにちは!とあいさつしたが、返事はなかった。
こんな人もいる。気にしない。


さらにすすむと右側の雑木の中に明治天皇小休所跡の碑が見えた。14時47分。東海道中、明治天皇の小休所跡はいたるところで見てきたが、まさか、こんな峠のこんな場所でみようとは・・・いつのころか知らないが、当時は、このあたりは開かれた場所でそれなりの施設があったのだろうと思う。まもなく接待茶屋跡に行くはずだか・・・

「兜石」両側に続く木立の道をどんどん上がっていくと兜の形をした岩の前に出た。兜岩とは、秀吉が小田原城を攻める折、休憩をした際、この岩の上に兜を置いたからと言い伝えられている。


←徳川有徳公遺蹟碑・・・有徳公とは8代将軍吉宗。ここの茶屋で休み永楽銭を賜り以後永楽屋と称した。昭和10年に建立された碑。それにしても立派な碑。

箱根街道の石碑と案内板 ↓道標【函南町・接待茶屋】 
【接待茶屋】の説明板より・・・箱根山中における接待の歴史は古いが、創始は江戸時代中期の箱根山金剛院別当が、箱根山を往 来する者の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚き火を無料で施したと伝えられている。この接待所も一時途絶え、ついで文  政7年(1824)、江戸の豪商加勢屋与兵衛が再興したが、これも明治維新とともに中断してしまった。
やがて明治12年(1879)、八石性理教会によって接待茶屋は再スタートしたが、教会の衰退とともに鈴木家に引き継がれ、利喜三郎・とめ、力之助、万太郎・ときらの三代により接待が続けられた。鈴木家は昭和45年(1970)に茶釜を降ろし、接待茶屋の歴史に終止符を打つまでの約90年間、箱根を往来する人馬の救済にあたったのである。・・以下省略
 ・・・ということは大阪万国博覧会の年までここに茶屋があったのか、どんな人がここを、なんのために通っていたのやら、国道1号線は箱根を通っていたのだから。
すぐそばに日本橋から26番目の山中一里塚がある。
ここから1号線に出て大きく迂回路を左にカーブして通り再び街道へ入っていくと石畳が始まる。次は「兜石坂」、ここは整備されていない石畳が続く、疲れもあるし、すべらないように、踏み外さないように、転ばぬように、常に足元をみながら歩かないといけないので視界がせまくなる、うっかりすると大事なポイントを素通りしてしまう。
まさかこんなに石畳が続くとは思いもしなかった、どこまで続くのやら・・。とにかく驚くばかり、この道を昔の旅人が歩いていたことを思うとことばにはならない。この石ころはその頃のことを知っているに違いない。


 
笹が覆いかぶさるようにトンネルになって延々と続く。
兜石跡 【兜石坂】

道標【兜石】休憩所


静岡県の東海道をずっと案内し続けてきてくれたこの道標はここで終わりになる。まもなく神奈川県に入るからだ。ほんとうにお世話になった。この道標に出会うたびに、間違いなく歩いていることを確認することができた。

なんだかさびしい。ありがとう。

道から10メートルほど、狭い道を入りこんだところに井上靖さんの箱根8里記念碑があった。

   北斗蘭干

北極星が燦然と夜空に輝くという意味だそうだ。



道路の入口に
「是より京都百里、是より江戸25里」の石碑。



向かいに珍しい八つ手→
観音像があった。

8本の手を持つ50センチの小さな馬頭観音。

台座に「天保八年五月吉日、箱根宿世話人 兵治良嘉兵衛」とあった。
このあたりは、い茨が生い茂っているのでこの付近の草原を茨ケ平(ばらがだいら)という。

ここから広い道路を上る、その時、道路を猛烈な勢いで横切る
ウサギを発見、道路わきに行くと止まってこちらを見ている。
おーい、うさちゃん、写真撮るから動くな!
しばらく歩道のない道路を上がっていくと三叉路に出た。右に峠の茶屋があったので暑いコーヒーが飲みたくて入ってみたら食堂でコーヒーはなし、残念。


ここは広い駐車場があり「箱根峠」と標識が出ている。静岡県と神奈川の県境らしい、やっと関東へ入った。静岡県に入ったのが去年の5月だったからずいぶん静岡県を歩いたものだ。

だれにもこの感動を伝えることはできない、よく歩いた、よく来た!そう何度も自分につぶやいた、感動。

ここから元箱根へ下りになって行く。箱根峠846m。
ひっきりなしに通る通行車両の激しい歩道のない道をゴールの元箱根を目指す。途中から一気に下る道へ、ここでデジカメが動かなくなった。故障か?芦ノ湖も見えて絶好のビューポイントなのにデジカメが使えないと困る、今日だけでなく明日もあるのでなんとか動かしたい。ゴールしてからゆっくり点検することにして元箱根を目指して下りて行く、笹林を下りていくとイメージしていた松並木が続く、今日のゴールは箱根関所だが、そこに行くまでにデジカメをなんとかしたいのでレストランに入ってコーヒーを飲んでゆっくりと点検することにした。新しいデジカメなので故障をするはずはない、きっと、接触不良だろうと、別のバッテリーに換えてみたりしたが、動いてくれない、時間が気になるので箱根駅伝のゴールの場所へ行って何度かシャッターを押していると動いた!
杉林の道を下っていくと箱根宿の立て札が立っていた。この箱根宿の文字を他でみることはなかった

関白道の碑、小田原攻めの秀吉が開いた道。
(デジカメが修復したので引き返して撮った)
    【10-箱根宿】天保14年(1843)
        
         本 陣        6軒
         脇本陣        1軒
        旅 籠       72軒


箱根宿は、小田原と三島から50名の人々を移住させて作られた宿場で、箱根宿が大きな宿場になったのは、元和5年(1619)、関所が完成してからだという。
現在、宿場の面影を残すものはまったくない。

おっ練習してるな・・・

【襷】TASUKI  駅伝広場↑
ここがゴール地点【東京箱根間往復大学駅伝競争】の碑
【箱根駅伝栄光の碑】若き力を讃えて↓
箱根宿の面影を残すものはないが、ただ一つ、はこねホテルは元本陣の一つだった「はふや」の跡で、ホテルの駐車場に当時、本陣にあった「楓」の木が現在も生き証人として生き残っている。箱根山中は街道筋に杉苗を植え杉並木を作ったが、箱根の宿場町の街路には楓の苗を植えて春夏秋冬の風趣を添えたそうだ。

     (↑翌日撮影・はこねホテルと楓の木)
←はこねホテル前の宿場跡の樹齢400年の楓の木。
17時前になったので今夜の宿泊所にしている昨夜の三島のホテルへ帰るのだが、芦ノ湖に沈む夕日が撮りたくて湖畔でのんびりと日没を待つことにした。遊覧船が戻ってくるのを見たり・・・しばし、湖畔に腰をおろしてのんびりと時を待った。

17時22分、日没が始まった、芦ノ湖の向こうの山へ沈んでいく日没の瞬間をこの通り撮ることができた。

薄暗くなりすっかり人の姿が少なくなった元箱根から、17時53分の三島行きバスで昨夜のホテルへ戻った。面倒なことだが、遊びに来て箱根に泊まる贅沢はできない。
今日のコースは、標識が完備していたこともあって珍しく迷うこともなくスムースに歩くことができて大満足。ただし、石畳で足にどれだけプレッシャーが残っているか、それが気になる。
初日の祝杯をホテルの部屋でした後、明日のひとり作戦会議、地図に1時間ごとの通過地点を明記して準備を完了した。今回も日程調整が難しくてあわただしい箱根行だったが完歩できてほっとした。 下りが苦手なので明日の箱根から小田原までの山下りはより慎重に事故がないように歩きたい。
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