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のんびりゆっくり 東海道シリーズ-25
こちらからどうぞ 2009.09.06 箱根→小田原

 2009年09月06日(日) 「箱根宿」→「小田原宿」(神奈川県)
●東海道五十三次ひとり歩きシリーズ
 「箱根八里-二日目・東坂の道下り」
前日に箱根西坂上り、箱根峠越えして到着した箱根宿(10番宿)から箱根東坂下りをして小田原宿(9番宿)まで完歩すること。

●今日は距離も長いし、昨日の疲れが出てくるはずだから、とくに時間管理はきちんとしておきたい、昨夜1キロごとに到着時間を手持ちの地図に明記しておいたのでそれが歩行ダイヤ。それを目安に今日は歩く。
幸い、足は元気、昨日の疲れは感じられない。


●今日もホテルのバイキングでほんの軽い朝食をすませてJR三島駅前のバス乗り場へ。

●7時40分、三島駅前から元箱根行登山バスで昨日ゴールした元箱根へ、これが元箱根行の一番バス。

途中でネット上のSNSメンバーの思わぬ出迎えを受けることになったのだが、この時点でまったく想像もしていなかった。

●あっ、富士山!バスから見えた、昨日
あれだけ姿を見せてくれなかった富士山が、てっぺんを見せてくれた・・・バスの中からしばらく楽しむことができた。富士側の座席に座ったのは正解。

バスを下車して、まず、芦ノ湖畔へ。

快晴の元箱根は涼しくて気持ちがいい。 正面に富士山がはっきりと見える!おー富士山、おはようさん!
昨日の夕方に日没を撮った場所から、今朝は富士山を撮る・・・ぜいたくなことだ。

デジカメのシャッターを頼まれて二人ずれのご婦人に、こちらも証明書用のデジカメのシャッターをお願いしたら、「芦ノ湖」の看板を入れましょうと、下の位置まで指図されて移動し撮ってもらった。東海道五十三次を歩いていることに興味をもたれたのかしばらく雑談。東京のおばさんも楽しい。↓このお二人さん。貫禄。

←じつは、もっと左の位置で二枚撮ってくれた。
↓富士山、実際はもっとはっきりと見えた。冬はきれいだろう。

同じ湖でも琵琶湖とはまるで雰囲気が違う。
正月おなじみの大学対抗箱根駅伝のゴール地点に向かい、箱根宿本陣があったという箱根ホテルへ、ここは、はやふという本陣があったそうで、いまも樹齢400年の楓の木が元気にホテルの前庭に立っている。(詳細は昨日の記録に)
  昨日見学した箱根関所前に行き、9時になるのを待って、二日目のスタートをした。入口も開いた。
道路をしばらく進み、右側の杉並木に入っていくといきなりすばらしい杉並木に迎えられる。
吸い込まれるように足がどんどんすすむ、まるで映画時代劇のシーンを思わせるような見事な杉並木に感動。

徳川幕府が旅人に木陰を与えたいと街道の両側に植えた樹齢370年、約420本の直立した杉並木は、松並木とは違った荘厳な雰囲気さえ感じさせる、早朝だからか人影のない杉並木をひとり占めして堂々と歩くのは我ながらかっこいい!

この杉並木も枝や葉が少なくなり、樹勢の衰えが目立ってきたために昭和五十九年から調査をはじめ、昭和六十一年から保護対策を続け、江戸時代から受け継がれてきた大切な文化遺産を後世に残すための活動が行われているそうだ。
きれいに見える杉並木もそうした努力によって保存されていることを知った。

歩いていて土がとても足に優しくて歩きやすく感じたが、実は、てここに至るまで、東海道の並木は松並木に限られていたが、土を柔らかくしたり、酸素を土の中に送り込んだり、排水をよくするなど、細かなことまで保護対策が行われているそうだ。ほんとうに歩きやすい土の道だった。

       もう一度歩いてみよう!
途中で杉並木の間から芦ノ湖畔に浮かぶ箱根神社の朱の鳥居が見えてきた、朝のやさしい陽を浴びて緑いっぱいの木々を背に、水に浮かぶ朱の鳥居は見事な景観だ。ふるさと宮島の朱の鳥居を思い出した!湖畔に出て写真撮影。


←杉並木 徳川時代参勤交代ノ為諸大名・・・往来セシ旧東海道ノ杉並木
(・・部分は土の中に埋まって読めない)

→旧東海道 杉並木

と彫られた石碑左右二本
杉並木の出入り口二本の杉の根本に
「葭原(よしはら)久保の一里塚」

杉並木を通りすぎると再び、湖畔の道路に出た。
するとこの景色、湖畔に出て写真を撮り続けた。↓
箱根神社の大鳥居。箱根神社は箱根の守護神として信仰が篤かったところ、時間がないので寄ることができずパス。

鳥居のすぐ隣に
「塞の河原」
説明板より・・・

この地は地蔵信仰の霊地として、江戸時代東海道を旅する人々の信仰を集めたところです。その規模は大きく、多数の石仏、石塔が湖畔に並んでいました。しかし、明治時代に入ると、仏教の排斥から多くの石仏が失われねまた、芦ノ湖畔の観光開発の中でだんだんとその規模が縮小し現在のようになりました。現存する石仏、石塔の中にも鎌倉後期と推定される艘塔を始め貴重なものがあります。(箱根町教育委員会)




遊覧船乗り場の隣にある賽ノ河原に寄り、その向かいの身代わり地蔵に手を合わせた。


「身代わり地蔵」とは、宇治川の先陣争いで名高い源頼朝の家臣・梶原景李は、ある年、箱根を通りかかった時、何者かに襲われました。当時、弁舌巧みで、たびたび人をおとしいれた平景時と間違えられたらしいのです。幸いにも、かたわらにあった地蔵が身代わりになってようやく命が助かりました。それ以来この地蔵を景李の身代わり地蔵と呼んだとのことです。(説明板より)


お土産物店が続く通りの元箱根バス停から右へ入り、いよいよ箱根の山に入って行く。
昨日、あれだけ石畳を歩いたのに今朝の足の状態は悪くはない
ので完歩できるだろう。


興福院の前にある復員「天下の険」の道標に見送られて、よし、行くぞ!
ゆるやかな坂道を上がっていくと男女二人の写真が埋め込まれた石碑の前にきた。

「ケンベルとバーニーの顕影碑」ケンベルはドイツ人、バーニーはイギリス人、箱根や東海道の美しさと自然の大切さを訴え続けた外国人として、箱根の恩人として二人の功績を讃え地元の人が建てたらしい。



毎年、ケンペル祭が催されているとか・・・
杉並木歩道橋をすぎると畳が始まる、「史跡旧箱根街道」と彫られた古い道標が静かに立っている・・・石畳の古さを証明しているようだ。朝早いから石が濡れているようで滑らないように・・



この石畳のひとつひとつ、どれだけ多くの人が踏んできたことやら・・角が取れ丸くなった石のひとつひとつに歩いてきた人の思いが残っているのだろう・・・
歩いてみて初めてわかる東海道の旅。
【権現坂】を上り、しばらくすすむ。
立てられた説明板を読んでみる
・・・この箱根は昭和三十五年国から「史跡」として指定されました。江戸時代の始めそれまで利用されてきた湯坂道のかわりとして利用されるようになったもので有名な「箱根八里」はこの道のことです。この道に敷かれている石畳は、延宝八年(1680) に江戸幕府が布設したものだが、その後、文久元年(1863)孝明天皇の妹和宮内親王が十四代将軍徳川家茂のもとに降嫁される際に全面的に改修されたと云われていると書かれている。大河ドラマの篤姫にも出てきた和宮さんが家茂に嫁ぐ時のシーンを思い出す。

日当たりが悪いからか、端の石にはコケが生えている
休憩所に箱根馬子歌の古い碑があった。
写真では文字がみえないが、右から左へ
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」
ここで今日、最初の男性とすれ違った。
写真撮らないの?
今日は多分、休日だから大勢の人に出会うだろう、だから撮るのはやーめた!
 また、石畳の道が始まった。



膝に負担をかけないように、やわらかく、やわらかく石を踏むようにしてすすむ。

しばらくすすむと
天ケ石坂】へ
小さな道標の後ろに大きな岩があるが、その形が天蓋に似ていたからつけられたとか。


上ったり下ったり、箱根の東海道を雰囲気を味わうにはここは最適かもしれない・・・。
石畳は【白水坂】へ続いて行く、この坂には逸話が残っていて、秀吉が小田原城を攻めた時、北条軍はこの付近で待ち伏せしていて、上から大きな石を投げ落して防戦したと伝わっていて、秀吉軍は、「城を見ず」して退却してしまったから、その場所を「城見ず」と呼んで、後に白水と謂われるになったとか。


道標の前に小石が置いてあるのは何かのしるしなのか・・・お賽銭かわりか、ま坂!
そろそろ最初の休憩地「甘酒茶屋」に近いのではないか・・・と思いながら進んでいると、女性の声が聞こえてきた。

わーたくさん、きたきた、団体らしい。急ににぎやかになってきた。気の弱い人間だから、隅っこに寄って、この大軍の通りすぎるのをじっと待つ、それが、こちらのことはおかまいなし、のろのろぞろぞろ・・・
この人たち、多分、この近くまでバスできた団体なんだろう。とても下から上ってきた格好ではないし、時間的にも下からは無理だと思った、いわゆる部分コースの人たちだ。

県道のところにバスがきていたみたい。ここを横切って標識の甘酒茶屋を向かう。

もう、気分は、おいしい甘酒を飲んでる・・・



【於玉坂】
この坂に伝わる悲話、むかし「於玉」という娘が関所破りをしてこの付近で捕まえられ処刑されたという、村人たちが憐れんで、いつしか於玉坂と呼ぶようになったそうだ。
珍しい木の根っ子道、熊野古道の中辺路でこの根っ子道の連続にほとほと難儀したことを思い出した。ただし、ここはここだけ、ほっとした。
写真で見た「甘酒茶屋」の独特の屋根が見えてきた。到着予定は10時30分、到着したのが25分。ここまで順調。楽しみにしていた甘酒を飲もう。「力餅と甘酒」850円を注文して土間風のスペースにあるテーブルについたとたん「ランドセルさんでしょ!」と、隣のテーブルに座っていた人から声をかけられた。 あっ!山賊さんだ!「○○さんでしょ!」と云うと、そうですと手が伸びて握手!


自分の箱根歩きを気にしていたらしい、今朝早く自宅を出て乗り継いでここで待機、もう、帰ろうかと思っていたところだったという。今日の日程を知る由もない山賊さん、まったくの勘で来たらしい。そこまでして、こんなところまで、わざわざ、その気持ちがうれしい。甘酒や力餅の味は話に夢中で記憶にない。山賊さんの気持ちがおいしかった。ここまで愛知県豊橋、静岡県浜松、磐田とネットで知り合った人と会ったが、箱根の峠でこんな出迎えを受けるとは・・・初対面なのに指名手配の顔写真は効いていたのだ。

ここから、山賊さんと二人で箱根下りをすることにした。
「親鸞上人と笈が平の碑」・・・東国の教化を終えての帰路4人の弟子と上人が険しい箱根路を登ってこの地に来た時、弟子と悲しい別れをした場所と伝えられている。(説明板より)


【追込坂】

この階段を下りていく、上るのはもっと大変だろう。下りると県道を横切り猿滑坂へ向かう


写真を撮り続ける自分が先に歩くと山賊さんに迷惑だから先を歩いてもらって写真を撮り続けながら追っていく・・・自分にとってはありがたいペースメーカーをしてもらった。甘酒茶屋で予定より17分遅れのスタートしたので、それ以上、遅れないように、むしろ取り返したい・・・しかし、やっぱり石畳は簡単ではない。

しばらく行くと急な階段が現れた、猿も滑るほどの難所という「猿滑坂」、石畳と急な階段を繰り返しながらどんどん降下していく。



背中の荷物も歩くスピードにブレーキをかける、坂や階段を下りていくうちに腰に痛みが出てきた、腰は昔痛めた古傷があるので気になった。幸い、後半の平坦地では回復して問題にはならなかった。この辺りが体力的に一番きつい時だった。



甘酒橋


山根橋をすぎる11時10分このあたりが須雲川に沿って畑宿(これから行く)から元箱根に至る旧東海道で、途中には旧東海道の石畳が残っている地域らしい、たしかにその当時の雰囲気を残した石畳が続いている。

←見晴茶屋への階段、パス。ここから長い階段が続く。

すごい階段が続く、昔は、ここを人も馬も上っていた、それを思うと・・・・階段の途中で、先を行く山賊さんが待ってくれている。写真ばかり撮って遅れる自分のことを案じてくれている、申し訳ない。東坂最大の難所だった【橿木坂】
急階段が続く「樫の木坂」、幅の狭い階段を下りるのは緊張する、説明板によれば「樫の木坂」・・・「けわしきこと、道中一番の難所なり、おとこ、かくぞよみける、樫の木のさかをこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの涙こぼる」と書かれている。
いったん1号線に出て歩くが、すぐに、石畳の街道に入っていく。
昨日の整備された西坂の石畳とは違ってこちら東坂の石畳はこけが付着しているなど滑りやすい。
東坂最大の難所というだけに下りるのも大変だが、これを上がるのはもっと大変だろう。ここを大名行列がどうして上り下りしたのやら、想像すらできない。
長い階段を下りて1号線へ
ここは七曲、車も多い。

こんなところにバス停「橿の木坂」、
このあたりに住んでいる人はいないので利用する人は、この箱根を歩く人が、途中でリタイアした人や、ここから上り始める人が利用するのだろう。
あっ、下界?が見えた、小田原だろうか?
今日はあそこまで下りていく!

実際はとてもきれいに見える。
七曲にそってどんどん下りていく。
右へ
左へ

こんな坂道を自転車で上っている人がいる

思わず頑張って!と声をかけたら

ありがとう!と返ってきた


歩くのもしんどいのに自転車は苦しいだろう。

1.2キロの七曲を下りると

また石畳の道をさらに下りて行く。






このあたりが【西海子坂】、どんどん下りて復元された畑一里塚の前についた、ここには箱根宿と小田原宿との中間、間の宿の畑宿があったらしい。
11時43分、遅れは13分。
ここで数分間の休憩にした

【畑宿の一里塚】

説明板の一部から・・・
山の斜面にあるこの塚は、周囲を切土・盛土と石貼で平坦面をつくり、直径が三十尺(9m)の円形に石積を築き、礫を積み上げ、表層に土を盛って頂上に植樹したものであることが発掘調査からわかりました。保存整備では、塚の構造を復元し、標識樹として畑宿から見て右側の塚には樅を、左側には欅を植えました。(箱根町教育委員会)

【畑宿】小田原宿を出て箱根宿まで登りが続くので途中で休める立場が必要だった。そこで中間に設けられたのがここ畑宿。立場で正式の宿場ではなかったが大名などが休憩する場所として設けられた。
←うたや


畑宿本陣と呼ばれていた茗荷屋跡。↓


ここは寄木細工が有名らしい。
今も畑宿の伝統工芸品としてその技術が伝承されているという。

このあたりで体調も足も元気を取り戻してきてスローペースながら普段通りに歩くことができた
山賊さんは元気だ。

大沢坂の石畳を下り

大澤川を渡ったところです。幕末の下田奉行小笠原長保の「甲申旅日記」に、「大澤坂又は坐頭転ばしともいうとぞ、このあたり、つつじ盛んにて、趣殊によし」と書かれています。当時の石畳の道が、一番よく残っている坂で、苔むした石畳は、往時をしのばせてくれます。(説明板より)



距離は短いが沢をわたり坐頭泣かせの険しい道だったらしい。
(雲助と呼ばれる人たち)「箱根の雲助」というと知らない人はいません。ところが雲助と呼ばれた人たちは、実は、この小田原の問屋場で働く人足たちだったのです。しかし雲助というとなにか悪者のように考えますが、それは一部の人で、問屋場では人足として登録をさせ仕事を割り当てていましたのでわるさをした人などはいなかったといいます。日本交通史論という資料によると、雲助になるのは次の三つにパスしなければならなかったそうです。その内容をみると、なかなかむずかしく誰でも、すぐなれるという職業ではなかったようです。
1.力がひじょうに強いこと(これは仕事の性質上ぜひ必要です)
2.荷物の荷造りがすぐれていること(荷物を見ると、だれがつくったものかわかり、また箱根で一度荷造りした荷物は、京都   まで決してこわれなかったそうです)
3.歌をうたうのが、じょうずでないと一流の雲助とはいわれなかったそうです。こうした人足のほかに、馬をひく「馬子」、かご をかつぐ「かごかき」たちの雲助が、元箱根や湯本など箱根の各地に住み、通行や温泉遊覧のたすけをしていました。
                                                   環境庁・神奈川県 
ここからの石畳は江戸時代の石畳がそのまま残っている。
どれだけ多くの人や馬がこの石畳を歩いたことやら・・・
江戸時代の古い石畳は続く

旅人から大名まで・・・
そうそう、弥次さん、喜多さんも歩いた石畳

日本の歴史が動いた石畳・・・思いは巡る


【割石坂】

を過ぎると広い一般道路に出て車道をどんどん下がる。


割石坂とは、曽我五郎が、富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えられている。(説明板より)





←発電所前バス停? 

ふーん、ここに発電所が?

とにかく、歩け、歩け!
派手な色彩の箱根大天狗神社前を大きくカーブして須雲川橋へ、このあたりが【女転坂】、馬に乗った女性があまりの急坂のため馬から転げ落ちたところからその名がついたらしい。



←鎖雲寺に寄ってみた。夫唱婦随で見事仇討の本懐を遂げた物語「箱根霊験記」で有名な勝五郎とその妻初花の墓がある。
きれいに萩が咲いていた。
このあたりから大きなホテルがみられるようになってきた。
奥湯本温泉なのだろうか。

ホテルはつはな・・・箱根霊験記の初花のはつねのことか?



さらに下っていくと華やかな寺院が見えてきた。
←天聖院だ。
奥湯本バス停を過ぎる、ここが奥湯本か!
大きなホテルが次々と現れる。
このあたりから箱根の温泉街なのかな。
ここが【葛原坂】の説明板によると
・・・幕末に編纂された「新編相模国風土記稿」には海道(東海道)中、須雲川村境にあり、登り一町ばかり」としか書かれていません。地名が葛原で、この辺りは今もクズの実が生い茂っています。・・・と書かれている。



二人連れのご婦人がウオーキング中、山賊さんが気さくに声をかけて楽しく歩いていた。

バス停の横に観音坂の説明板があった

【観音坂】
とは説明板によると

・・・奥湯本にある坂で、幕末に編纂された「新編相模国風土記稿」に(東海道)の西方にあり、登り二町(約二百十八米)ばかりこの辺を宇古堂と唱ふ」とあり、昔観音堂があったので、坂の名がついたと記されています。・・・
ホテル南風荘から少しすすむと旧街道は左へ下りていく。
「箱根旧街道入口」

ここから255メートルが国指定史跡になっているそうだ。説明板によると・・・江戸幕府は延宝八年(1680)に箱根旧街道に石を敷き舗装をした。この先から約255メートルはその面影を残しており国の史跡に指定されている。この近道は県道に通じ湯本駅方面への近道となる。(箱根町教育委員会)



わずかな距離だが上り下り、川もある変化に富んだ道だった、また、もとの県道へ出て行く。
江戸から22番目の「湯本一里塚」

ここを見落としてしまったことに気づいて引っ返す、山賊さんが気を使ってこちらのペースに合わせてくれたのでポイントも見逃さないように歩くことができた。


このあたりは道路が左右に曲がりながら下っていく
道幅も狭いし歩道がないので危ない

↓下の右の石垣の角に下の双体道祖神があった。



男女仲睦まじい「双体道祖神」

江戸時代この辺りは湯本茶屋村といい、その村境の道祖神。男女の神が頬寄せ手を取り合いその睦まじさを示す事によって悪霊が村に入ってこないように念じて立てたもの。(説明板より)

曽我兄弟ゆかりの「禅寺・正眼寺」へ寄ってみた。

(説明板より)
この寺は曽我兄弟の伝説を伝える古刹です。この寺の創建は明らかではありませんが、鎌倉時代、箱根地方に広がった地蔵信仰の中から生まれた寺であることは確かなようです。寺には、地蔵信仰にゆかりのある寺宝がいくつか残されています。




←こんなかわいい道祖神にほっとする
時間は予定通り、さらに下がっていくと左手に「早雲寺」が見えてきた。

早雲寺は、小田原ゆかりの北条早雲の菩提寺。ここは拝観したくて朱印帳も用意していたのだがパス。
ここで着替えと休憩。




←早雲寺の向かいに白山神社
このあたりから車の通行量が多くて歩道のない道を歩くのには神経を使う。足は元気を取り戻して問題なし。

←路傍の道祖神

湯本郵便局を過ぎ早川にかかる三枚橋に着いたのが13時57分。予定が14時だから、これからは石畳のない一般道のはずだから時間の心配はなくなった。



三枚橋から箱根湯本駅が見える。

1号線湯本歩道橋・・・横浜59km 小田原6kmと表示。
ここから小田原方面の1号線が箱根駅伝のコースだそうだ。
湯本歩道橋を渡り1号線に沿って高い場所にある側道をすすむ。1号線に下りると生い茂ったつつじの中に山崎古戦場跡の碑を発見。ここは慶応4年(1868)官軍の先鋒となって小田原藩と幕府遊撃隊が激しく戦闘を繰り広げたところ。

1号線にそってすすむ、このあたりは桜並木になっているので春にはきれいな桜が楽しめるところだろう。
上を箱根登山鉄道の電車が走ってきた・・・
こんな交通標識、なにをデザインしているのやら?
前をずっと歩いてくれる山賊さん、後ろを写真を撮りながらおくれないように追っていく、ずっと、この調子でここまで歩いてきた。
ここが日本初の有料道路だったとか。桜並木をすすむと達磨の交通標識が迎えてくれた。

箱根登山鉄道の踏切にきた、すぐ向こうに入生田駅が見えている。いよいよここで山賊さんとお別れだ。

山賊さんと握手して駅へ向かう山賊さんの後姿が見えなくなるまで見送りした。人柄のすばらしい山賊さんだった。14時28分。
ここからまたひとり歩きが始まる。公民館前の階段に腰をおろして水休憩をしていると向こうからリュック姿のおじいさんがやってきた。お互いに目があった、77歳のこのおじいさん、元気元気、まだ、役所に頼まれて○○の仕事をしているとか、仕事場と自宅の間を毎日歩いて通っているというおしゃべりおじいさんの話が延々と続く、ここで15分も休憩して予定時間をオーバー。まあ、これも楽しい東海道ひとり歩き、写真を撮らせてもらって別れた。
さあ、後半。しっかり歩こう・・・
古い民家の続く道、石を積み上げた塔のような不思議なものが見えてきた。
となりの看板には

「春日局」ゆかりの長興山超太寺と書かれている。
ここから丘に行くと小田原稲葉一族と春日局の墓所がありしだれ桜が見どころと書かれている。
へー、あの春日局の由緒のあるところ?
しらないことばかりだ。

旧道の雰囲気の続く道をスピードアップ。

自分でも不思議に思うのだが、いつも3時頃になると足が元気になりどんどんすすむ。
お江戸から21番目の「風祭一里塚」、一里塚のに関するものはなにもないが、の横に赤い帽子とエプロン姿の道祖神が祀ってあった。むしろこちらのほうが有名らしいぞ。

箱根の道ではいたるところで道祖神を見かける、旅人の無事を祈ってたたずんでいると思うがほっとする。自分も見守られて歩くことができていることを忘れてはいけない。


しずかな街道がつづく、風祭駅。

箱根登山鉄道の踏切へさしかかった、電車好きの血が騒ぐ、ここで登山鉄道を撮影したくなって電車の来るのをじっと待つ。待ち続けてやっと一枚撮った。


←踏切の手前には、題目日と馬頭観音、日蓮聖人霊跡の碑があった。
踏切をわたり、登山鉄道と並行している1号線を小田原を目指して急ぐ。
上板橋交差点あたり小田原の広告塔が立っていたので小田原市に入ったのかもしれない。

交差点で1号線から左へ、登山鉄道のガード下をスピードアップして一気にすすむ、ここで予定時間を大幅に短縮、静かな旧道も快歩!


やがて新幹線のガードが見えてきた。
 小田原は宿場と城下町として賑わってきたところ。 説明板で以下のように
新幹線のガードを超えると1号線に出た、このあたりに小田原宿の西目付があったらしい、西の出入り口だったところ。今日のゴールと決めているのが江戸口見附跡だから、ここからゴールまでが小田原宿を歩くことになる。

ガードを越えたところが早川口交差点、このあたりが「板橋見附」
だったらしい。
←東京 83k 横浜56k 平塚22k お江戸まで徐々に近づいてきた。まっすぐに延びる1号線は小田原市の中心部へ進んでいるようだ、歩道橋を越えてすすむと赤い鳥居の天満宮の前を通ると山角町の石碑があった。このあたりの職人さんの町だったらしい。
    【9-箱根宿】天保14年(1843)
        
          本 陣        2軒
          脇本陣        2軒

        
 旅 籠       26軒

筋違橋町の石碑のすぐ向こうが箱根口、交差点。ここを左に入ると小田原城へ続く。旧町名には小田原城下町時代の役割が彫りこまれた石碑は興味深い。石に説明文が掘られているので消えることも破られることもない。 いいアイディアだと思う。
    
箱根口交差点に15時46分に到着、予定時間は16時15分、大幅に余裕時間ができたので予定外の小田原城へ寄ってみることにした。

小田原城の城門でもっとも大きく堅古に造られ常盤木門↓

いつもは新幹線から眺める小田原城内をぐるりひとめぐりした。
以下は小田原市ホームページから引用させていただきました。
小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられています。1500年ごろに戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展しました。 江戸時代を迎えると小田原城は徳川家康の支配するところとなり、その家臣大久保氏を城主として迎え、城の規模は三の丸以内に縮小されました。稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、近世城郭として生まれ変わりました。その後、大久保氏が再び城主となり、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきました。
 しかし、小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました。
 現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年(1971)には常盤木門、平成9年(1997)には銅門が復元されました。さらに小田原市では、貴重な文化的遺産である小田原城跡をより一層親しんでいただくとともに、長く後世に伝えていくことを目的として、本格的な史跡整備に取り組んでいます。 平成18年10月に、「日本の歴史公園100選」に選ばれました。
16時20分、再び1号線の箱根口交差点からゴールの江戸口見附跡をめざす。 通りには旧町名の石碑が立っている。
←旧東海道小田原宿中宿町の表示。

本町。↓このあたりが小田原宿の中心地だったらしいが、面影はまったくない。北条氏時代、この町は通小路と言われていたがの小田原江戸時代前期にこの町を基準にして城下の町人町を左右に町割りしたとき本町と改められた。隣の宮前町とともに小田原宿の中心で江戸時代末期には本陣二、脇本陣二に旅籠が二十六軒ほどあった。(町名碑に書かれた説明より)

←小田原宿なりわい交流館
関東大震災で被害を受けた建物を昭和7年に再建したもので小田原の典型的な商家の「出桁造り」、旧網問屋跡。
本町交差点を過ぎると右側に「明治天皇宮ノ前行在所跡」の碑が建っており、明治天皇聖蹟の碑があるところが片岡本陣跡だったらしい。

このあたりの古清水屋旅館が旧脇本陣跡だったらしいというので探したがみつからない。下左の写真角・青物町交差点で腰をおろして人が来るのを待つ、まったく人影がない、やっと来た年配の男性に訪ねたら、その旅館は解体されて無くなっているという、旧脇本陣があったと逆に教えてくれた。いくら探してもむだだった。でも、これで納得。でもでも疲れる。こんなことの繰り返し。
次の青物町交差点を過ぎると蒲鉾店の続く。小田原といえば蒲鉾、これくらいは知っている。でも、全国、蒲鉾で有名なところは多いなあ。



蒲鉾店の続く道を左へ入ると新宿交差点、そこを右折、しばらくすすむと歩道橋が見えてきた。
この歩道橋の下にゴールの「小田原宿江戸口見附」跡の碑がたち、横にお江戸から20番目の「山王一里塚」があった。

説明板によると・・・「見附」とは、城の枡形門に設けられた見張り番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。

小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦の際には、町ぐるみ掘りや土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を通す際に、枡形が作られた。小田原城から江戸へ向かう出口であったため、江戸口見附と名づけられた。

天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、塚上えの樹ありしが・・・(以下略)
17時5分になっていたが17時ゴールのほぼ予定時間に完歩できて大満足だった。
ここから小田原駅へ、これが小田原駅より東京方面へかなり行き過ぎて歩いていたので結構な距離を戻ることになった。

 小田原駅
小田原駅でこっそりと着替えして小田原駅でもっとも売れているという駅弁を買い込み18時9分の新幹線に乗り込み名古屋へ。そのまま新大阪へ向かえば20時過ぎには帰ることができるが贅沢は禁物。 青春18きっぷを利用するために、名古屋駅で東海道線に乗り換え19時30分発の米原行きへ乗車、席が取れなくて岐阜まで立った。米原で乗り換え新大阪駅に着いたのが22時13分、そのまま仕事場へ直行して留守中に届いていたメールをチェック。自宅へ戻ったのが23時半。小田原で買ったかまぼこでやっと完歩の祝杯、ビールがおいしかった、それにしてもよく歩いた! 難所の箱根を過ぎお江戸日本橋が見えてきた。
箱根の下り、9月6日-「箱根→小田原」の記録。 (結果37,917歩 32.6k)