とうとう品川宿まですすみました!
2010年3月13日 (5)戸塚宿→(4)保土ヶ谷宿→(3)神奈川宿
2010年3月14日 (3)神奈川宿→ (2)川崎宿→ (1)品川宿
2010年3月14日 多摩川六郷橋  2010年3月13日 生麦事件之跡 

東海道五十三次(3月13日)戸塚→保土ヶ谷→神奈川


東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、3年計画で京都三条大橋をスタートしてから2年11ケ月、今日が28日目、明日が29日目、4月のゴールを前にコースは神奈川県からいよいよ東京都へ移動していく。気候もよくなってきたし、青春18きっぷを使って前泊して2日間を歩くことにした。

◎3月12日 -「由比→さった峠」(番外編)




◎3月13日 -「戸塚→保土ヶ谷→神奈川」(JR戸塚駅→JR鶴見駅)
◎3月14日 -「神奈川→川崎→品川」  (JR鶴見駅→JR品川駅)

[3月13日(土)-「戸塚→保土ヶ谷→神奈川」]
午前8時40分、前泊した藤沢駅前のホテルを出発し電車で戸塚へ移動。前回のゴール地点の戸塚バスセンター前へ。戸塚本陣まで少し逆戻りして気分を高め「いざ、出陣!」
天気はよし、見上げる空は真っ青、お天気をチェックしてこの日をスタートにしたのが当たって最高の日和になった。これならいい歩きができる!

まず清源院へ寄る、徳川家康の死後、側室であった於万(おまん)の方が尼となって入った浄土宗のお寺で芭蕉の句碑があった。


東海道線の踏切を渡り、お寺にはおよそ似つかわしくない本堂がモダンな石造りの浄土真宗善了寺へも寄ってみた。街道を歩く楽しみの一つはお寺や神社へ立ち寄ること、もちろん旅の安全祈願もあるが、なによりも時が止まったような静粛さとくつろぎが乾いた心に潤いを与えてくれるからかもしれない、気持ちが落ち着くのだ。

1号線にそってすすむとやがて柏川にかかる吉田大橋へ、広重の絵に描かれた橋だ。
さらにすすむと道路わきに江戸から10番目の戸塚一里塚の説明板が立てられていたが何の跡も残っていなかった。
少し行くと戸塚宿の江戸側の出入り口だった戸塚江戸見付跡につく、今日のコースではここで戸塚宿を出て保土ヶ谷宿に向かうことになる。


五太夫橋を渡ると左にブリジストン横浜工場前の前に出た、そこから右の歴史の小径へ入り迂回するようにしばらくすすむとまた1号線に戻り、この区間で何度も迷って人に尋ねたが聞き方が悪かったのか、15分ほど余計なところまで行ってしまった。
ゆるやかな不動坂をすすみ、増田家のおおきなモチノキの下を通り左にポーラ、山崎パン横浜工場前を通って赤関橋交差点に出た。

赤間橋を渡り左の平戸永谷川べりにあった標識の地図と手持ちの地図とが違っていたが、正式な地元の標識に沿って平戸永谷川にそってすすみ花壇の手入れをしていたおばさんと話し込んでしまった。その人に聞く赤関橋を渡ると少し進んで柏尾川へ行くのが正しいと教えられた。あわてて交差点まで戻って仕切り直しとしたが、ここでも25分ほどロスタイム、もっともおしゃべり時間が半分くらいあったな。
桜のつぼみがほころびかけた柏尾川の桜並木から住宅街に入りゆるやかな曲がり道をすすんで行くとバイパスの下に出たのでここで最初の休憩にした。


携帯を見ると2通のメールとブログにも応援メッセージが入っていた。一人で歩いているつもりなのに、こうして気にしてくれている人の気持ちがうれしい。遠く離れた知らない土地を歩いている時のメール・メッセージはとても元気をもらう。さらにすすむときつい上り坂が続く、ここが品濃坂らしい。


このあたりから風が一層強くなり、環状2号線にかかる品濃坂歩道橋に出た時は、とても帽子をかぶってはおられないほどの強風が吹き荒れていた。曲がりくねった果樹園の中をすすんでいくと静かでこざっぱりとした住宅街に入った。

前方にこんもりとして木立が見えてきたので急いで近づくと品濃一里塚があった。
江戸から9番目のこの一里塚は神奈川県に完全な形で残っている唯一の一里塚だそうな。向かいから若い男性が一人、後ろから年配の男性二人とここで合流したが、さっさと行ってしまった。


ここから緩やかな下りを行くと竹林の陰に古い道祖神がたたずんでいたので
お参りして無事を祈った。こうして気がつかないところで自分の無事を手を合わせて祈ってくれていることを忘れてはいけない。

やがて三叉路に出ると正面に植木地蔵尊が見えてきた、ここが武蔵の国と相模の国境だったところ、かって戸塚宿と保土ヶ谷宿の中間、植木立場として茶店が並び旅人の休憩所としてにぎわっていたところ、ここから富士山や江戸湾が見えた景勝地だったらしい。この地蔵尊の到着予定時間を10時30分と設定していたが11時5分になっていた、迷った分が遅れの原因で歩くペースは間違っていないと思った。



植木小、中学校前から左の道へ入っていく、ここから地名が権太坂になる、箱根駅伝の花の二区、難関区間でおなじみのあの権太坂、ただし駅伝の権太坂は別にあるらしい。上り下りしながら約17分で権太坂の入口へ下りた。江戸側から京を目指すとここはかなりの上り坂だ。



ここでしっかり地図を確認すればよかったのに坂の入口にいた子供連れの若い男性に軽い気持ちで確認したら東海道は右という、すすんでいくが様子がおかしい、しかし、聞いた男性がずっとこちらを見ているので戻るわけにはいかない、姿が見えなくなるのを待っていると、ちょうど歩いてきたサラリーマン風の40歳くらいの男性に尋ねたらカバンから地図を取り出して、こちらが持っている資料と確認しながら丁寧に教えて切れた。やはり右ではなく左だった、とても親切な男性で「お気をつけて!」と声を残して行った。

しばらくすすむと保土ヶ谷二丁目交差点で1号線と合流、このあたりでも強風が吹き荒れてしばし建物の陰に身を寄せてしまったほど、メガネをしているのに目に砂が入ってこまった。1号線と今井川の間の整備された遊歩道をすすむと一里塚跡と上方見付跡の碑がたっていた。このあたりが保土ヶ谷宿の京側の出入り口だったところ。


今井川の向かいにある地元では「お仙人様」といわれている外川神社へお参りした。1号線をそのまますすむと右側に古い建物が見えてきた。旅籠風の趣のある脇本陣跡(大金子屋)、続いて当時の門がそのまま残っている本陣跡だ。このあたりが保土ヶ谷宿の中心だったのだろう。



[保土ヶ谷宿]とは、江戸を出た旅人が最初に迎える難所が権太坂で、その坂を越えるために多くの旅人は保土ヶ谷宿で休息し、坂を越えて行ったそうな。本陣が1軒、脇本陣が3軒、旅籠は70軒もあったらしい。

本陣跡前を1号線から左の商店街へ入りすすんで行くと右角にめずらしい四つの道標が並んでいた。「金沢横町道標」と呼ばれているらしくて、金沢・浦賀往還の出入り口だったところだそうだ。金沢八景、杉田梅林など景勝地と富岡など信仰の地が多くあったので東海道と分岐する要所だったところ。


狭い商店街の行きあたりは相模鉄道の天王町駅前の公園だった。ここで近くのスーパーで弁当を買ってきて木陰で昼食 温度が上がって木陰に入らないと暑い。ここまでも予定時間を40分ほど遅れたが、暑いから無理して急ぐことはやめることにした。天気がいいので5時までなら十分に明るい道を歩くことができる、休憩25分。昨日、さった峠の無人スタンドで買った5個100円のミカンがおいしかった。こいつが背中の重りになっていた。

駅前からまた商店街をすすむ、左の橘樹神社に寄り、保土ヶ谷宿の江戸川の出入り口があった江戸見付跡を探すがみつからない。このあたりを2往復して立て看板式の説明板を発見、宝物を見付けた心境になった。続く松原商店街の雑踏のような人出のにぎわいには驚いた、頑張っている商店街もあるのだ。

しばらく歩いていると?? やや? 正面からこちらを見ている人がいる??
あっ!箱根の山賊さんだ! 急いで近づいて再会の握手。
去年の9月に箱根の山下りで会ってから半年ぶり、なつかしい、ほっとする再会だった。今日は、戸塚から待ち伏せしながら自分を追って歩いてきたそうだが、実は戸塚を自分より早くスタートしていたようで追いつきようがない、半ばあきらめて戻ってくる途中でうまく遭遇したというわけ。

ここからゴールまで山賊さんと即席の弥次さん、喜多さんになる。
静かな住宅街の道を行く、高速の下を通り緩やかな上り道が続く、車以外は人影もほとんどない道を上台橋まで来た
かってこの上台橋あたりは潮騒の聞こえる海辺の道だったらしい。
少し行くと神奈川台関門跡の碑、袖ヶ浦見晴所碑の前に着いた。
ここから右側は崖下で神奈川の港が見える景勝の地であったところで、開港後、外国人が殺傷される事件が多発したために外国政府の要請で幕府が安政六年に警備体制強化のために関門や番所を設けたその一つ。


[神奈川宿]日本橋を出て3番目の宿場町です。現在の台町あたりは、かって神奈川湊を見おろす景勝の地でした。この神奈川が一躍有名になったのは、安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台になってからです。その4年後に結ばれた日米通商条約では神奈川が開港場と決められていましたが、後に横浜に変更されました。(説明板より)

道路右側(当時は崖上になっていたのだろう)で料亭田中屋が営業しているが、この田中屋は神奈川宿がにぎわっていた当時から続いている唯一の料亭で、文久3年(1863)に創業した。
この田中屋で、坂本竜馬の妻「おりょう」が働き始めたのが明治7年、勝海舟の紹介で働いていたという。英語が話せ、月琴も弾くことができたので外国人の接待に重宝されたという。


大鋼金比羅神社・一里塚前を通過、まもなく横浜市内のビル群が見える高台に出てきた、山賊さんに聞くと横浜駅周辺だとのこと。少し歩くと繁華街に行かれるのだろう。
青木橋の信号からすぐ左の階段を上っていくとかって開港当時にアメリカ領事館があった本覚寺へ。高台にあり眺めがすばらしい、きっと開港当時は、ここからすぐ近くに港が見えたに違いない。


JR線を越えて坂道を下っていくと左側にお寺が続く、最初に訪れたのが開港当時のフランス公使館のあった甚行寺。次に訪れたのがイギリス士官宿舎に当てられていた普門寺へ。
続いて源頼朝が安房国一宮の安房神社の神をこの地に招いたのが始まりという洲崎神社へ。滝の橋の両側に本陣があったらしいが今は何もない。

開港当初、アメリカ人宣教師で医者だったヘボン博士が診療所を開いていた宗興寺へも寄ってみた、ヘボン博士は「ヘボン式ローマ字」でおなじみの人だが、こんなところでヘボン式のルーツを知るとは思いもしなかった。


続いて、そのヘボン博士が宿舎にしていた成仏寺を訪ねた。そのすぐ向かいの神奈川地区センター前に復元された高札場の大きなものがあった。


さらにオランダ領事館跡のある長延寺・見付跡も尋ねた、ここが神奈川宿の江戸への出入り口だったところ。いまは公園になっていてここで休憩。



国道15号線に合流して滝野川を渡り、そのまま車の通行量の激しい15号線にそってまっすぐにすすむ、横浜の繁華街は過ぎたらしくて落ち着いた街並みが道路の両側に続く
近くを並行して走っている京急の仲木戸駅、神奈川新町駅、子安駅、新子安駅前を通過、実は今夜泊まるホテルはこの新子安駅前、ホテルを確認してさらにすすむ。

めざすは、生麦事件のあった現場、やがて左手にキリンビール横浜工場の大きな建物が見えてきた。
15号線からキリンビール工場に通ずる道を入って行くと右手に生麦事件の碑が立っていた。1862(文久2)年、薩摩藩の島津久光の行列を乗馬したまま横切ったイギリス人を薩摩藩の藩士が殺傷、その犠牲になったイギリス人の死を悼んだ黒川荘三が私費で明治16年に建てたものらしい。この事件をきっかけにして翌年、薩英戦争が起きたのだから決して小さな事件ではなかった。ずいぶん古い碑、なんとかきれいにできないものか・・・・



ここから今日のゴールのJR鶴見駅まで3キロ地点、このあたりから道の両側を独特の海辺近くの佇まいが続く。「生麦」は地名のことで、ここを生麦街道というらしい。
その生麦の生麦魚河岸通りをどんどん歩き続ける、朝市はにぎわうらしいが夕方なのでお店はすべてしまって人影もあまりなかった。
歩き続けて、JR鶴見線を横切り京急鶴見駅高架下をくぐるとゴールのJR鶴見駅前に着いた。


JRで新子安駅へ、ホテルに入ってしばらくゆっくりして明日の準備にかかった。
ここでも携帯に励ましのメールが入っていた、ありがたい。
約44,000歩 約30キロ、正式にはもっと短い区間だが迷ったり寄り道した結果でそうなったものと思う。