のんびりゆっくり 東海道シリーズ-3

2007.7.16 滋賀県石部→水口→土山

東海道五十三次シリーズ第4回を祭日の16日に歩いてきた。今回のコースは、石部から水口を経て土山まで(いずれも滋賀県)、それぞれ石部宿、水口宿、土山宿があるところだ。
先月、クラブの例会でこの区間を飛ばして、今日のゴール土山から関まで歩いているので、形としては後戻りということだ。
距離も長いので早朝に出発。JR新大阪駅6時39分に乗車、草津駅で草津線に乗り換え。スタートの最寄駅石部駅についたのが7時50分。スポーツ大会でもあるのか車内で一緒だった高校生の一団も降りて駅前を占領しているので駅の写真は撮らなかった。
その代わり駅前にある東海道五十三次石部宿と掲げられた「本陣修景公園」のベンチによる。
5月にゴールした石部宿道の辺広場(石部中央交差点)へ移動、ここでサンドイッチと牛乳で簡単な腹ごしらえ。8時30分にスタート。
ここの広場の一角が高札場のあったところ。
宿場町の風情の残る早朝の石部の街道を歩く。日の丸が掲げてある旧家が続く。
吉姫神社。由緒のある神社らしいが…パス。
暑さを感じさせる雲・・・すぐ汗が出てきた。
朝のうちに距離を歩いておきたい、人影のない、きれいに清掃されたまっすぐな道をどんどんすすむ。
落合橋の手前にあるという石部宿東口跡を探すがないので、草刈りをしていたお父さん軍団に聞いてみた。二人三人と寄ってくるが、結局誰も知らない。”気をつけて”という声をもらって先を急ぐ。ここらが石部宿の東の入口だったのだろう。しかし、それらしき雰囲気はなにもない。
まだ合併前の甲西町のマンホールが残っている。いまは合併して湖南市。
古い街並みの残る街道をどんどんすすむ。歩道のない道、車に神経をつかいながら歩く。花の手入れをしていたご婦人が”おはようございます”と声をかけてくれた。とても気持ちがいい。
五十三次の名所、うつくし松の自生する美松山に寄りたいのだが、時間的に無理なのでパス。
家棟川をすぎるとやがて右側、北島酒造の前に来た。個人的なことだが、普段から、ここ造り酒屋北島酒造のお酒を愛飲している。鈴鹿山系の水を使っているらしいここのお酒はうまい!どうしても見ておきたかった。なるほど、とても風格のある造り酒屋さんだ。文化2年(1806)年創業。このあとも銘酒造り酒屋さんの前を通り写真に収めているが、今回はこちらだけということでお許しを! 9時10分。
9時17分。正面にトンネルが見えてきた。見るのを楽しみにしてきた二つの隧道のうちのひとつ由良谷川の下を通る由良谷川隧道だ。
ここは、川底が道路より高い天井川になっている由良谷川の下を通っているトンネルだ。そばに「明治19年3月築道」と書かれた石碑がある。
そうだ!その通りだ!
夏目の里で最初の休憩。昨日までの雨で湿度は高く、首にまいたタオルももう汗を含む。今日は、水分補給を十分にすること。このあたりはトコロテンが名物だったらしい。
しばらく歩き、また天井川の大沙川のトンネルが見えてきた。堤防に樹齢750年という弘法杉の老木がそびえている。弘法大師が通りかかったとき、景色がよくてこの場所で昼食をとり、その時に使った杉の箸を堤防に差し込んだら、のちに成長して大杉になったという伝えのある杉。
9時45分。二つ目の隧道、天井川の大沙川下の大沙川隧道だ。この隧道が滋賀県下で最初の隧道だそうで明治17ネン4月につくられた。花崗岩を半円アーチ型に積み上げられたもので先の由良谷川隧道と同じみたいだ。幅4.4、高さ4.6、長さ16.4メートル。写真下右上に弘法杉の幹が見えている。9時45分。
この地は、奈良、平安時代に寺院建立のため多くの木が伐採され、大雨のたびごとに土砂が流出、そのため川床が上がり、堤も上がり、天井川になったという。
東海道を生き交う旅人は、天井川に差し掛かると高い土手に上り、対岸へ渡らなければならなかった。その対策として明治になって隧道が作られたものと思われる。
少しすすむみJR線を渡り最初の道を右へすす。9時52分。
JR三雲駅前にすすむがここまでに一部、道を間違えてしまった。10時13分。ここで時間ロスがあった。
駅前の交差点角に二つの石碑。右が明治天皇聖蹟」の碑。
さらにすすむ、いつのまにか曇り空、田園風景を楽しみながらどんどんすすむ。JR三雲駅をすぎ野洲川にかかる横田橋をわたる。10時17分。
横田橋の真ん中あたり、1号線457キロ。
橋を渡ると広い横断歩道を渡り正面にすすみ左へ野洲川にそって行く。
湖南市から甲賀市に入る。野洲川にそって1キロくらいか、ひときわ目立つ横田の常夜灯が見えてきた。ここは、かって横田の渡しがあったところ。常夜灯は遠くからでも旅人の目印になるように10.5メートルの高さがあり、東海道でも最大級のものだそうな。
甲賀市観光情報から。
「東海道十三渡し」の一つで、このあたりは野洲川に山が迫り狭くなっているので交通上の要地として重要視されていました。野洲川のこの辺りを横田川といい、幕府の政策により橋を架けられなかったので旅人は難儀をしました。参勤交代等で通行量が増加しますと幕府の道中奉行の支配を受けるようになり、渡し舟や渡し賃の制度が整えられました。3月から9月の増水期は4艘の渡し舟で、10月から2月までの渇水期は土橋を架けて通行するようになりました。また、年間何日かは大水で「川留め」になり、通行ができないこともありました。
この「渡し」を物語るものには泉側に建つ常夜燈です。この常夜燈は文政5年(1822年)地元の村々だけでなく京都・大阪の人々を含めた万人講で建設されたもので、総丈7メートルを超え、笠石2,3メートル四方、周囲17,3メートル玉垣に乗っている東海道随一の規模を誇っています。往時は夜も通行が絶えず、対岸の渡し場がはっきり分かるように目印として建てられました。灯籠の笠の部分に「金比羅大権現」とあるのは水上交通の守護神としての信仰からかと思われます。シーボルトの「江戸参府紀行」には、「この川岸には金比羅さんを祈念した石灯籠、火をともす大きな台がある」と述べています。
平成10年に「旧東海道横田渡跡」は県史跡に指定されています。

野洲川、かっては、このあたりを横田川といったらしく、ここに渡しがあった。当時の石段の一部も残っている。ここで休憩。予定時間より早い到着で、5時にゴールという目処がついた。・・・あとから雨に遭うとは想像もできなかった。10時32分。
常夜燈の正面にある道に入っていき、泉川をわたると泉一里塚へ。この一里塚は別の場所だったらしいがここに移して整備したらしい。
のどかな田園風景が広がってきた。
←水口宿・・東海道・・横田渡→
広い道に出ると、そこからは、道は一直線に伸びている。街道の名残の松並木があちこちに残っている。ただ、道を拡張したり整備したりして、どうやら、ほとんどの松並木は消滅したらしい。
選挙もまじか。ポスターも至るところに貼られているが、この日、まったく選挙カーには出会わなかった。10時52分。
まっすぐな道が続く。雲間から日が射すと暑い、降っても照っても逃げ場のない街道。小川がきれいでザリガニがいっぱい、いっぱい。
この松は、東海道松並木修景保存のために植樹されたもの。
11時19分。柏木農協の前に「時の鐘」
柏木小学校の前を通過して・・・
五体並んでいる庚申塚。
東海道がまっすぐに、きれいな一直線に伸びているこのあたりは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。縄手とは、田の中の道のことで東海道整備のために曲りくねった伊勢道を整備、近隣の人たちに清掃の割り当てがあり旅人の疲れを休めたといわれている。11時34分。
柏木神社を過ぎ造り酒屋美富久をすぎて瀬戸物やの角を左へ入ると昼食予定の五十鈴神社へ。
予定より20分も早く昼食場所と予定していた水口の五十鈴神社に到着した。一角に林口一理塚があった。11時42分。
「五十鈴神社」ここで、ゲートボール帰りのおばさん達としばし談笑。どうやら、ひとり歩きのこのじじいに興味をもったらしい。
こういうことも、ひとりウォークの楽しみの一つ。やっぱり女性の会話力はたいしたもんだ。いろいろと話しかけてくる。楽しい。一人でさびしくないかと盛んに聞かれる。”男は、一週間、黙っていてもなんともないんですよ”というたら、”女性は、しゃべり相手がないと楽しくない”と言い返してきた。そうだろう! 神社の鳥居の横で昼食。
12時5分に午後のコースへスタート。これからが長い、少し曇が広がってきた。
「水口石」東海道に面した小坂町の曲り角に伝わる大石で力石と呼ばれている。江戸時代から知られたもので錦絵の題にもなったらしい。
時間に余裕があったので、予定していなかった水口城跡へ足を伸ばした。自然の湧水の堀をめぐらせた城で、別名「湧水城」というこの城は、三代将軍家光が上洛する際の宿館として築いた将軍家専用のもの。周辺を散策して元の道へ、ここで、ほぼ、本来予定していた時間になった。
東海道のコースに戻って水口教会の前を通る。日本に多くの名建築物を設計したヴォーリズが設計し、昭和4年(1929)に建てられた。篤志家の米国人がヴォーリズの熱意に打たれて遺産を贈与したので、この礼拝堂が建てられたといわれている。平成13年「日本キリスト教団水口教会礼拝堂」と「門柱」1対が国登録有形文化財建造物として登録された。
向こうから勢いよく歩いてくる男性がいたのでこんにちは!と声をかけると笑顔いっぱいでよってきた。40前後とみたが、きのう桑名から歩き始めてここまで来たという。考えられない。いでたちを見ているとマラソンランナーの格好。今日は、関からここまで来たらしい。元気な人もいるもんだ。歩くより走るように行き去る後ろ姿をみて東海道の楽しみ方もいろいろあるもんだと再確認。水口中部コミュニティーセンターで小休憩。
近江鉄道の踏切を渡ると・・・
正面にからくり時計が見えてくる。ここから道が三筋になってい東海道は真ん中の商店街だ。
からくり時計。左の商店街の道を行く。
      「宿場町の水口」説明板から
天下を握った家康は、慶長6年(1601)東海道を整備し、五十三の宿駅を置いて公用輸送を確立、この時水口も宿駅となりました。宿場は、町数27、家数718と発展、俳聖芭蕉も眈逗留し「命二つのなかに生きたる桜かな」の句を残しています。庶民の旅が盛んとなった江戸後期には40余の旅籠し本陣・脇本陣があって客引きで賑わいました。宿場の名物には干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等があり、夏の風物詩「かんぴょう干し風景」は歌川広重の浮世絵によって広く世に知られました。
ここが旧東海道。いまは、アーケードの商店街になっているが、往時を偲ぶ古い建物も多い。
曳山のあるまち、商店街に統一した看板が。
商店街を通り抜けると三筋は一本に合流して問屋場、高札場、本陣、脇本陣跡前に出てくる。

         【50-水口宿】
水口町観光協会情報から

滋賀県の東南部、甲賀地域の中心に位置する甲賀市水口町。水口は都から伊勢に通じる街道上の要地として早くに開け、室町時代には伊勢参宮の将軍家や文人達の通行が見られました。
  その後、天正13年(1585)豊臣秀吉の命により大岡山に水口岡山城が築かれ、水口はその城下町として町並みを整えました。この城は関ヶ原合戦で落城しましたが、慶長6年(1601)には東海道の宿駅に指定され、旧城下は宿場町として再出発。規模は近江の東海道五宿のうち大津に次ぐものでした。
  寛永11年(1634)三代将軍徳川家光の上洛時の宿館として小堀遠州の手によって水口城が築かれ、さらに天和2年(1682)に水口藩が成立すると、水口は甲賀地域の中心地としての地位を固めました。 涸れることのない湧水の堀に囲まれた城は一名「碧水城」と呼ばれ、現在はその跡に矢倉を模した「水口城資料館」が整備され、多くのお城ファンが訪れます。
  このほか町内には「蓬莱庭園」で知られる「大池寺」など、多くの見どころや文化財がありますが、なかでも毎年4月19.20日に旧宿場町一帯で行われる「水口曳山祭」(県指定無形民俗文化財)は、曳山巡行と勇壮な「水口囃子」で知られ、多くの観光客でにぎわいます。

「問屋場跡」この碑に書かれていること
→【問屋場】は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、人足を用意しました。水口宿では、江戸中期以来はここ大池町南側にその場所が定まり、宿内の有力者が宿役人になり、運営にあたりました。12時52分。
高札場跡。
水口宿場場、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠41軒。
水口本陣跡。
「水口本陣跡の碑」碑文から この地は江戸時代水口宿の本陣が置かれていたところです。本陣とは大名・旗本・宮家・公家・幕府役人などが休泊するための施設でこれわ補助するものとしては脇本陣があり、水口宿ではその両方が宿の東部の昨坂町にありました。本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋に許されない門・玄関・書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたりました。この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、明治二年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去されました。13時4分。
水口宿の町並みをさらに進むと「脇本陣跡」、ここは、そのまま個人の家として使われている。
国道1号線を横切りすすむと水口宿東見付けにつきあたる。「東見付(江戸口)跡」という碑が立っている。
【見付け】とは、城郭の門など、外と接し警備を行う場所と書いてある。この地が水口宿東端、すなわち江戸口となっていた。水口藩が成立し城下町になったので東西に警備所として見付が設置されたようだ。13時10分。
ここを右に急な坂を下っていく。このあたりからしばらくは、上り下りの道が続く。坂道を下りたところにきれいな公園があったのでここで休憩。もう500ミリペットボトルの水を二本飲んだ。とにかく暑い。タオルも2枚目に交換。13時25分。
道の向い側を反対から来る男性がいるが、地図を盛んに見ているので声をかけなかった。リュックもなしの軽装なので遠くからの人ではないのかなあ。急に曇ってきた。少し上り道が続く。
山川橋を渡る。13時47分。
向こうからまた二人ずれがきた。多分、夫婦なんだろう。近づいたらなんと反対側へ寄ってしまった。へんなおじんにかかわられたくないと思ったのだろうか・・・自販機の横に腰を下して作戦会議。
気持ちを引き締めて、また静かな道を行く。
歩き続けて549号線と側道とを交互しながらすすむと小さな休憩所にきた。
ここで休憩。街道をゆくの石碑。
しばらく静かな街道をどんどんすすむ。「今郷一里塚」の前にきた。石碑は、選挙看板でふさがれていて撮れない。お役所仕事はこんなもん、ちょっと横に立てればいくらでもスペースはあるのに。
再び549号線と合流する地点に「水口宿入り口」の塔が立っている。東から来ると水口宿、西から来ると水口宿から土山宿へということだ。とうとう、ぱらぱらと雨が降ってきた。ここで振られても、どこにも雨宿りするところはない。足は大丈夫だが、ついついペースが落ちてくる。クラブで行くと、交代しながらだれかが、ペースメーカーとなって歩くのだが、一人で歩く時は、そこがむずかしい。全体の進み具合と、次の目的地までの距離と時間を設定して、大きくタイムオーバーしないように、しかも、見どころは押さえていかないといけない。写真も撮りたい。忙しい。ついつい、行きすぎて諦めることになる。右手には「デジカメ」、左手に「地図」
今日最後の土山へ入る。14時20分。
土山宿の西、今宿・・・
大きな交通安全標識!
しばらくは、田園の道が続く。かんかん照りも困るが雨はもっと困る。
照る日、雨の日、旅人の安全を祈願してくれている・・・ありがとう。
ニッポンのあき!農家のみなさん、ありがとう。
名産の土山茶畑。ここらから茶畑が目立つ。
茅葺屋根の旅籠・東屋跡。
国道1号線を歩道橋で渡り右の道に入る。
歩道橋を渡るとすぐ左に三好赤甫旧跡の碑がある。地元の生んだ俳人らしい。
そしてすぐ近くに旧跡弥陀羅橋の碑。
ここからの道は、ずっと旅籠跡の石碑が続く。その数はいくらになるやら・・・ここらで雨足が激しくなり軒先で雨宿りしながら、少しずつすすむ。店はないし、もちろんコンビニなどありはしない。
写真を撮りたいし、雨は気になるし、道の両側は旅籠跡が延々と続く。写真を撮っていると進まないしバッテリーも切れてしまう。今の旅館街。
明治天皇聖蹟碑、旅籠跡の続く海道にひときわ大きな碑が立っている。明治天皇の行幸碑はあちこちで見かけた。
旧旅籠屋は石碑で統一してあるらしい。ここに紹介するのは、ほんの一部。斜めに傾いているのは実際の姿でいい加減に撮ったものではない。
野洲川の見えるところもある。
大野小学校を過ぎると松並木が続いている。ここらから、また、雨が多くなってきた。ちょっとだけだが、昔の街道の雰囲気が伝わってくる。
反野堤。大日川堀割の記念碑。
「市場一里塚」15時15分。
このあたりから急に雨足が強くなってきたので倉庫の軒下に入り込む。困ったなあ・・・。朝のかんかん照りからは考えられない天気の急変。
倉庫の軒先で30分ほど雨宿り、小雨になったので通りかがった男性に撮ってもらった今回たった一枚の東海道五十三次ひとり歩きの証明写真。15時40分。
小雨になったのでまた歩き始める。とにかく急ぐ、まだまだ土山宿の中心、本陣跡までは距離がある。足も今が一番しんどいとき。
垂水頓宮御殿跡。平安時代に斎王(未婚の女王)群行のときに宿舎が建てられたところる
雨上がりの道をすすむ。この通り、一軒の店もない。昔は、東海道のこのあたり、いろいろな商売をする店や旅人でにぎわっていたところだろうが。あるのは自販機だけ。
ぬれた道、この通り、人も犬も猫もいない。
道を尋ねようにも尋ねる人もいないぞ!
しばらくすすむと夕立のような雨になってきた。とても歩ける状態ではない。運がよかったのは、ちょうど野洲川にかかる自転車歩道専用橋が目の前に、ここは、橋に透明の屋根がかかっていた、てここで20分の雨宿り、さびしい何もないところだ。うたごえ橋という名前の橋。
橋の真上から1号線方面を写す。正面は山なのだが一気に見えなくなる。下は野洲川。
少し小降りになってきたので、とにかく、先を急がないと・・・雨の国道1号線に合流しすすむ。東京から441.5キロ地点。これから歩く距離だ。横田橋上が457キロだったから15.5キロ来たことになる。石部駅から20キロ以上は来ていると思う。
2本の道標が仲良く並んでいる。
  右 北国たが街道
     ひの八まんみち

  たかのよつぎくわんおんみち
  高埜世継観音道
写真を撮ってくれた男性が、国道1号線に出るとコンビニがあると教えてくれていたのでカサを求めてコンビニや、どこや!と進んで見つけたコンビニは、なんと、閉鎖していた!こらっ、こらこらこらー!写真前方の突き当たり右に今は閉ったままの元コンビニがあった。500mはあったぞ。
途中で歩道がなくなるし雨は降るし・・・踏んだり蹴ったり。国道から右の街道を入るとここは、両側の至るところに旅籠の碑が続く、一般の家にも、元旅籠○○屋という標識が付けられている。
その数から想像しても、土山宿の規模の大きさには驚いた。また、旅籠跡のめちゃ多い通りに入っていく。
説明板にある広重の絵、「土山 春の雨」
土山宿の詳しい説明板。
かっての商家跡は、木札がかけられている。これも一部を紹介したい。
いかにも質屋さん。
大黒橋に広重の絵が描かれている。なんとも風流な橋だ。
坂はてるてる 鈴鹿はくもる あいの土山雨が降る  ほんまに、よう降るなあ・・
橋の絵から
土山宿陣屋跡【陣屋】とは、代官、その他の役人が在住した屋敷のこと。
高札場跡【高札場】とは・・幕府が発した法令などを記した「高札」を掲示した場所のこと。人の目につきやすいところに設置した。
大黒屋本陣跡・問屋場跡【問屋場】とは・・宿の公用を行う事務所のこと。仕事は、幕府の公用旅行者のための人足や馬や宿泊所の手配をしたり飛脚の管理をしていた。
  土山や唄にもうたふ はつしぐれ 蘭更
  金沢生まれで芭蕉に影響を受けた俳人。
一軒一軒の軒先、壁、庭先に昔の屋号がかかっていて、何屋さんだったのか想像して歩くのも楽しい。それにしても数が多い!
旅籠 山村屋跡↓
旅籠 近江屋跡↑
「明治天皇聖跡碑」
「土山宿本陣跡」
土山宿本陣は、宝永11年(1634年)、三代将軍家光が上洛の際に設けられた。本陣は、当時の大名、旗本、公家、勅使が宿泊したもので、屋内には現在でも当時の使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁になり、土山宿に宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇行幸の際には、この本陣でで誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒が下賜され、今なお土山の誇りとして語り継がれている。本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治3年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。(説明板を抜粋)
「土山宿問屋宅跡」
「問屋場跡」と「成道学校跡」
土山問屋場跡、問屋場は、公用通行の客や荷物の人馬継立、宿泊施設の世話、助郷役の手配など宿にかかわる業務を行う場所て、宿の管理を司る問屋とそれを補佐する年寄、業務の記録を行う帳付、人馬に人や荷物を振り分ける場指・人足指らの役人が詰めていた。土山宿の問屋場は、時代とともに場所を移り変わってきた。宿駅廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。(説明板を抜粋)
「二階本陣跡」
菱屋跡の和風茶房うかい屋。
雨上がりの土山宿町並み、どこまでもこのような街並みが続き、まるで映画のセットのような感覚になりながら歩いた。
森鴎外も泊まっ。旅籠平野屋跡。
「旅籠井筒屋」森鴎外の祖父はここで亡くなった。↓
白川神社。
来見川にかかる来見橋に描かれた広重の東海道の絵。くるみ橋。
あいの土山の茶店の絵。
まだまだ木札のついた通りは続く
↑統一した街燈が電柱に取り付けられている。↓生里野地蔵尊、今日も楽しく歩きました、一日ありがとう。がらがら、お賽銭・・・。
    道標  従是 右 京都へ十五里
             左 江戸へ百十里 
右側に茶畑が広がる。
雨も上がったし、ゴールはもうまじかのはずだ。
左にあいの土山・道の駅が見えてきた。ゴールはその向かいの田村神社。
17時37分に田村神社にゴール!
田村神社・道の駅前のバス停。ここからJR貴生川まであいくるバスで移動。
予定より少し遅れたが、雨に足止めされながらよく歩いた。 
歩数 約47,800歩 距離 約34キロ
☆交通経路 往路 JR新大阪→草津乗り換え→石部
復路 あいくるバス田村神社前→JR貴生川→草津乗り換え→新大阪

☆この日、新潟でまた地震災害が発生した。亡くなられた方にはお悔やみを、災害に遭われた皆様には、お見舞い申し上げます。
雨の中を34キロ、よく歩きました。楽しく歩いたご褒美だよ!

経路と交通費(自宅から最寄り駅は除く)
往路 JR新大阪駅→JR草津線石部駅 普通1,280円
復路 あいくるバス田村神社前→JR貴生川→JR新大阪駅 バス  270円
普通2,210円
歩数 JR石部駅→バス田村神社前 約47,800歩