のんびりゆっくり 東海道シリーズ-4
2007.6.17 滋賀県土山→三重県坂下→関

今回は、クラブの仲間たちと鈴鹿越えだ!
東海道ウォークシリーズ第三回は、石部-土山間は次回に延期して、主宰しているウォーキングクラブの月例会で、土山から鈴鹿峠越えして関まで、ひと足先に歩くことにした。
今回は地元滋賀県のメンバーが担当をしてくれたので、こちらは何の準備をすることもなく、気楽に歩くことにした。JR大阪駅へ集合、草津で乗換え、草津線貴生川駅を下車、そこからあいくるバスで土山宿の入口にある田村神社前まで。結構な時間がかかった。ひとり歩きの東海道ウォークもたまにはグループもいいだろう。どんなウォークになるか、期待の鈴鹿越えが最大の楽しみだ。写真は、一部、メンバーの撮ったものを活用させてもらうことにした。お断りしておきたい。
田村神社の向かい側は道の駅あいの土山店。弁当を買って、ちょうど9時30分にスタート。
国道1号線にある田村神社。
田村神社にお参りをしてからと参道をすすむ。ずいぶん大きな神社だ。
田村神社は、平安初期の弘仁13年(832)に創建された。神社に鎮座するのは、坂上田村麻呂で、田村麻呂が鈴鹿峠の鬼を退治したという伝説にちなんで始まった厄除祭が有名。厄除の神様として崇められている。
神社から1号線にもどり田村川を渡って再び左へ、次の辻を右へ・・・しばらくすすむと蟹坂古戦場跡へ10時4分に行く。

●蟹坂古戦場について説明板から
天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。
 このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。 平成七年三月土山町教育委員会
しばらくすすむと1号線と合流。やや下りを快調にすすむ。ここは、いつものように先頭を歩いて・・・東京から438キロ地点。
途中、蟹塚があるというので脇道へ入っていくが、どうやら林の奥にあるらしい、みんな、行くのはNO!
●蟹塚?滋賀県の民話から。
昔、鈴鹿山の麓に身の丈3メートルもある巨大な蟹が棲んいて、その蟹が旅人や村人を襲ったため、人々は恐怖に怯えていた。ある時、通りがかった旅の僧都が印明を示し、天台宗の往生要集を説き聞かせると、蟹はそれまでの悪行を悟って涙を流して喜び、自らの甲羅を八つに割って消えた。僧都は割れた甲羅を埋めて塚を建て蟹を供養し、蟹の血で八つの飴を作って竹皮に包んで里人に授け「この飴は諸々の厄除に効あり」と伝えた。恐らくこの物語に登場する「蟹」は山賊のことだと思われる。土山には、かにが坂飴がある。
再び、1号線へ。四日市まで42、亀山20キロ。
思ったほど暑くはないが、やはり梅雨の間の天気なのでむしむしする。緑が目に優しくていい。
第二名神の前にきた。
手前の左が山中一里塚公園になっており休憩。10時35分。ここには、鈴鹿馬子のモニュメントや馬子唄之碑が建てられている。
観音道の道標もある。いちいのくわんおん道と彫られている。ここは、東海道と大原道(観音道)とをつなぐ生活道でもあったらしい。
国道1号線から一本東ののどかな道を10分ほどすすむと山中の小さな公園へ。ここには、馬子唄の碑や常夜燈がたっている。
   坂は照るてる 鈴鹿はくもる 
     あいの土山雨が降る


   これからその鈴鹿を越え坂下へと行く。
こちらは晴れていても、なるほど、鈴鹿の山は雨雲か・・・・? 1号線沿いに上って行く。
先頭グループと後方との差がだんだんと開いて担当者が立ち止まって待っている。 
1号線から西側の道をいよいよ鈴鹿を目指して上り道に入っていく。ちょっと空模様が心配になったきた。
ヨッ! 快調、いいペース!
434キロ、前の標識からちょうど4キロ。ただし、1号線から離れたりまわり道もしているので歩いた距離はもっと多いはずだ。
東海道と東海道自然歩道の道標。
左側に大きな常夜燈が見えてきた。思わずみんな”わー大きい!”ほんまに大きい。
高さ5m44cm、重さが38トンもあるそうで、江戸時代の中頃、四国の金毘羅神社の常夜燈として鈴鹿峠に建てられ、東海道を往来する行商人信者が常夜燈に火を燈し、鈴鹿峠より伊勢の海はるかかなた、四国金毘羅神社に航海と道中の安全を祈願されたという。使われている石は、地元山中村高幡山天ヶ谷より運び出され、地元山中村をはじめ坂下宿、甲賀谷の人達、三千人の奉仕によって出来上がったと言われている。いまは、国道1号線の鈴鹿トンネルの上で、往来する車や人々の交通安全を見守っている。この常夜燈の下に 鈴鹿峠路傍休憩地があったのでここでお昼の弁当と休憩をする。とてもきれいに整備されており、立派なトイレも設置されていた。
楽しいお弁当だ。メンバー撮影写真。
常夜燈の前に滋賀県-三重県の境界碑。
来た道を振り返ると・・・かなり上ってきた。
左側に茶畑が広がっている。真ん中の電柱のあたりを1号線が通り鈴鹿トンネルへ続く。
どんどん上って行くと東海道自然歩道案内図、うしろは土山名産の茶畑だ。
    是より京まで十七里
    
界 右 滋賀縣 近江の国
       左 三重縣 伊勢の国
いよいよ鈴鹿峠へ入って行く。12時18分。
●鈴鹿峠説明板より
伊勢と近江の国境をなす標高378mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っている。都が奈良盆地にあるときは、伊賀から加太峠を越え伊勢に入る経路(後に大和街道と称す)が東海道であった。しかし、仁和2年(886)近江から鈴鹿を越え伊勢に入る阿須波道と称する新道が開かれ、同年斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められたことから、この鈴越えが東海道の本筋となった。

峠越えが開通して間もない昌泰元年(898)伊勢神宮へ下った勅使が山賊に襲われている。(伊勢公卿勅使雑例)。建久五年(1194)には源頼朝が近江国山中の地頭山中氏に盗賊の鎮圧を命じていることや(山中文書)、「今昔物語」の蜂を飼う水銀商人が山賊を退治する説話、「太平記」の坂上田村麻呂と戦った鈴鹿御前の話などから、古代から中世にかけて山賊が横行していた様子がうかがえる。また、「鈴鹿山」は伊勢国の歌枕として著名で多くの作品が残されている。


「拾遺集」
思ふ事なるといふなる鈴鹿山越えてうれしき境とぞきく 村上天皇

世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあるらむ  斎宮女御

「新古今集」

鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てていかになりゆくわが身なるらむ   西行

このほか、峠頂上には磐座と推定される「鈴鹿山の鏡岩」や、坂上田村麻呂を祀った田村神社の旧跡があり、これらは峠祭祀に関わるものと考えられる。江戸時代、鈴鹿峠は「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われ、松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋の茶屋が建ち並び賑わっていた。現在でもこれらの茶屋の石垣が残され、往時の情景を偲ぶことができる。 亀山市
田村神社舊跡。田村神社がここにあったということかな? このあたりに茶屋があったとか。石垣が残っていると案内板に書かれていたので探したいが・・・もう、みんな、先をどんどん行くので止められない、あー残念。12時20分。それにしても険しい道と想像していたのその気配はまったくない・・・これからかな
それから2分も歩くと、「鈴鹿山の鏡岩」の前に着いた。三重県指定の天然記念物らしい。
●説明文から
天下の峻険鈴鹿峠頂上の南方120メートルにあり、岩石の肌面は縦二、三メートル、横二メートル。むかし峠に住む盗賊が街道を通る旅人の姿をこの岩に映して危害を加えたという伝説から俗称「鬼の姿見」ともいう。
峠の先端の崖上から峠の自動車道が見える。
その崖、前が絶壁になっている。おー怖っ!
12時27分。ここが頂上?378m。
さぁー、今度は下りだ!
今度は下るだけ、ところどころに石畳あり。馬の水飲み鉢。ここまで登ってくるには馬も大変だったろう。何やら書かれているが判別できない。12時34分。
すぐ近くに鈴鹿峠の説明板があった。ここでカメラを持った中年の女性一人とすれ違った。東海道を歩いているんだろうか。
●鈴鹿峠説明板から・・・先の掲示板とほぼ同じことが書かれている。
鈴鹿峠(378m)を超える初めての官道は「阿須波道」と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886)
年に開通した。八町二十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の今昔物語に水銀商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとなえて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立鳥帽子という山賊を捕らえたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。
また、鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師に
「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠まれている。
江戸時代の俳人、松尾芭蕉は鈴鹿峠について「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残している。下の通り。
少し下りて行くと芭蕉の句碑もある。
ほつしんの 初にこゆる 鈴鹿山  芭蕉
下りが続く! 余裕の笑顔、にたり!
こんな急な坂を下って行く!
どうやら峠を下りたらしい12時37分。あっとい間のことで、拍子ぬけした。去年の熊野古道の
中辺路のことを想像していたので、あっけなく下りてきたが、まだ下りきっているかどうかはわからない、とにかくすすもう。メンバー全員、だれも疲れたものなし。合併前の関町の道標が残っている。
ただ、峠までの道が緩やかで、下りが急であったので、逆に歩くと、多少はきついのかもしれないが・・・。
1号線の下を通り、階段を下り、石畳の急な道を下りて行くと片山神社の鳥居前についた。12時42分。鳥居をくぐり、階段を上ってみる。この神社、昔は鈴鹿大権現だったそうだ。
鈴鹿流なぎなた術発祥の地の碑。
まだまだ下り・・・みんな元気。
やっと1号線に出てきた。ここが峠の下・・・上り道になるのかな?12時57分だ。
しばらくは1号線に沿ってゆるやかに下って行く。めざすは坂下宿だ。東京から431Km 大阪から112km。先頭メンバーが三人、ピッチ上げてる!あの3人は健脚組だ。
よー、かっこいい!
鈴鹿川に沿って坂下宿をめざして。
1号線から側道へ入るとすぐ左に大道場岩家十一面観世音菩薩の大きな碑が立っている。近くに岩家観音があるはずだか・・・みんなの気持ちは、次に行っている、探すのは諦めよう。こんなとき自分ひとりだったら、必ず、探しに行く。ここは、こだわり違いだろう。
気になったので畑作業をしていたおじいさんに、観世音菩薩のことを訊ねたら、あの碑のすぐ近くにあるそうだ。でも、空気は、もう戻るつもりなんかない。500メートルもないんだけど・・・自分も諦めの気分。

右上の一角が金蔵院跡。鈴鹿山護国寺といわれた名刹で、江戸時代の初期には、将軍家の御殿が設けられていたそうだ。上洛途中の徳川家康や家光が休息したところ。明治になって廃寺になり石垣のみが残っている。
         【48-坂下宿】
坂下宿のパンフレットから・・・
坂下宿は、鈴鹿峠のふもとに位置し、その名もその立地に由来しています。いつごろ宿が建てられたかは定かではありませんが、「宗長日記大永4年(1524)の条に「坂の下の旅館」とあることから、室町時代には宿として機能していたものとみられます。慶安3年(1650)の大洪水により壊滅し、1キロほど下流に移転して復興されました。江戸時代には、東海道五十三次の48番目の宿場として、鈴鹿峠を往来する多くの人々で賑わいました。東海道難所のひとつである鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家などの宿泊も多く、江戸時代後半には、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒を数え東海道有数の宿にあげられます。明治23年(1890)関西鉄道の開通による通行者の激減とともに宿場としての役割を終えました。・・・
小竹屋脇本陣跡。
梅屋本陣跡。
法安寺の庫裏の玄関として使われている坂下宿本陣松屋の建物の一部。坂下に残る唯一の本陣建物の遺構らしい。13時23分。
大竹屋本陣跡。
坂下宿は、難所の鈴鹿峠を控え、江戸時代後期には、大竹屋、松屋、梅屋の本陣、小竹屋脇本陣がありました。特に大竹屋は、間口十三間半(約24m)、奥行二十五間(約42m)もあり、鈴鹿馬子唄にも「坂の下では大竹小竹、宿がとりたや 小竹屋に」と唄われたように、数多くの大名家も休泊する東海道髄一の大店として世に知られていました。・・・・略・・・これほど賑わいをみせたこれらの建物は明治以降にすべて取り壊され、現在は跡地に石塀を残すのみとなりました。

横の板にも
坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に

・・・大竹小竹に泊まれなくても、せめて小竹屋には泊まりたいということなのだろうか?
説明板にある坂の下宿の賑わい図。
また、しばらく下りながら行くと左へ大きくカーブし小学校が見えてくる。さの前を通るが大きな柱が等間隔に道路脇に立てられている。一本一本を東海道五十三次の宿場になぞらえたものだ。うーん、いいアイディア!13時40分。
そして左下に下のようなデザインの鈴鹿馬子唄会館だ。実は、右側にも建物があるのだが、左の建物にカメラが向いてしまった。ここには、ホールや研修つを備えた地域文化創造施設として、鈴鹿馬子唄と鈴鹿峠の歴史文化について常設展示してあり、鈴鹿馬子唄も、係りの人がカセットテープで聞かせてくれた。また、東海道五十三次を歩いている人が記帳するノートにも書かせてもらった。書かれた住所をみると圧倒的に東の人が多い。ここで休憩。
馬子唄会館を出てから、ずっと静かな道をどんどんすすむ。最後の関を目指してもくもくと歩く。沓掛の古い町並みを通過して・・・本当は道中の写真をどんどん撮りたいのだが、自分がメンバーの歩きのペースを崩すわけにはいかないので、とにかく、先頭を担当者と歩く。14時26分。
国道1号線に出て、左の鈴鹿川と並行して緩やかに下り続ける。振り返ると↓
筆捨山を背景に今日の歩行証明書の撮影をメンバーにしてもらう。今日は、手持ちの用紙に鉛筆で書き込んだ粗末なもの、おまけに東海道の道が抜けている、ほんまに間抜け野郎!14時33分。
↓筆捨山。パンフレットから。
その昔、画家の狩野元信が旅の途中でこの山を描こうと筆をとったところ、山の風景が刻々と変わってしまうことに絵を描くことをあきらめ、筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられています。江戸時代から名勝として世に知られ、浮世絵での坂下宿はほとんどのものが筆捨山を描いています。14時40分。
説明板にある筆捨山の絵。
しばらくすすみ左の道へ入り突き当たりを左、また、突き当たりを右へ、次を左へ、鈴鹿川にかかる市瀬橋を渡りすぐ左へ、1号線に合流してすすむと関ロッジの看板が左に見えてくる。
市之瀬社常夜燈 14時54分。
関宿はまもなく。
関に入って最初に訪ねたのが、西の追分からすぐの観音堂。
東の追分方向に新所の通りをすすむ。東西の追分間は、1.8キロ。ここは町並み保存されている。
前からメンバーが撮ってくれた。
ちゃんと撮ってくれよ、おっと、足がもつれる!
会津屋の前で、いえ、なにも食べてません、のぞいただけです。
また、メンバーに撮られた!
さっそうとウォーキングしているシーン。実は、帰りの電車の時間が気になって後ろにいる連中を急がせているのであります!
なんとか、電車の時間に間に合った!ここから、また、長い電車の旅が始まった・・・。とにかくご苦労さんでした。
★9月2日のウォークでこの関からスタートしています。今回も写真を撮っておりますが、関宿の紹介は、次回にまとめていたしますので、本日分はほんの一部だけにしております。
鈴鹿越え、クラブの仲間と楽しく完歩したご褒美だよ!

経路と交通費(自宅から最寄り駅は除く)
往路 JR新大阪駅→JR草津線貴生川駅→あいくるバス田村神社前 普通1,280円
バス  270円
復路 JR関駅→JR新大阪駅 普通1,890円
歩数 田村神社前→JR関駅 関宿を広範に歩いた分が加算された。  約33,300歩