のんびりゆっくり 東海道シリーズ-5
2007.9.2 三重県関→亀山→庄野

旧東海道五十三次ウォークのシリーズ第5回、三重県亀山市関宿から鈴鹿市庄野宿までひとり歩きをしてきた。 6月17日にここまで来ているのでその続きだ。

三重県の降水確率が70%であることは承知の上で行ったがさすがに終日の霧雨、小雨には疲れた。
かさもカッパもリュックの中にちゃんと用意していたが ウォーキングに似つかわしくないと、かさは強い雨のときだけにして、濡れながら終日歩き通した。
出発は午前7時21分にJR新大阪駅、2度の乗継で三重県の関へ。途中、鈴鹿の山々が雨雲にかすんでみえるのを車窓から見ながら。せっかく来たのだから中止することなく少しでも歩こうとスタートの関の駅頭に立った。午前9時14分。
          【47-関宿】
関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。
慶長6年(1601)に徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり問屋場や陣屋などが整えられました。天保14年(1843)には、家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として江戸時代を通じて繁栄しました。(西の追分にある説明板より)
関は霧雨、夏休み最後の日曜日、多くの人が訪れると思っていたが、駅前に人がまったくいないのには驚いた。
歩き始めるとうろうろとあたりを見渡している二人連れが目に入った。東京から東海道を関まで歩いてきたという中年のカップル、夫婦だろう。
”私もこれから行きますのでそこまで一緒に行きましょう”と案内した。こちらは、西の追分へ、その人たちは東から西へだから東の追分へ。
西の追分に至る新所の通りも誰も通っていない。早朝だったからかもしれないが、映画のセットを見ているようだった。
この通りには、江戸時代、関の特産物の火縄を作る火縄屋があったところ。火縄は鉄砲に使うため大名のご用達があったほか、旅人が煙草に使うため繁盛したらしい。
東の追分へ・・・正面は鈴鹿の山だろう。
見事に保存された町並みだ!
それにしても人の姿はない、不気味なくらいの静けさの中をひとり行く!
正面に小さく緑が見えているところを右へ少し下ると東の追分だ。そこは、国道1号線↓とも合流している。
国道1号線、名古屋74km、四日市30km、亀山9km。この左側に西の追分の碑が立っている。
「西の追分」ここの追分は、大和街道の分岐点にあたり、東海道、京都方への次の宿は坂下宿で、鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78km)あります。大和街道は加太(かぶと)越えをして伊賀から奈良へいたります。(説明板より)
題目塔に「南無妙法蓮華経」と彫られているが、ひだり いが  ・・やまとみち 判別できない↓
ここから、今きた新所の街並みを戻ってくる。
嵯峨天皇の時代に開創されたという「観音堂」。土地の豪族、関氏の祈祷寺として栄えたそうだ。
「地蔵院」(国重要文化財)天平13年(741)行基菩薩の開創。本堂・鐘楼・愛染堂が重要文化財に指定されている。「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろう」で名高く、東海道を旅する人々の信仰を集めたという。
「停車場道」。明治23年に四日市と草津を結ぶ関西鉄道が開通した時、関停車場への道として整備されたそうだ。
旅館「会津屋」、関宿を代表する旅籠のひとつ、二階に洋風の窓がついた洋風屋は珍しい建物だ。
「福蔵院」、秀吉に敗れて切腹自刃した信長の三男、織田信孝を弔うために建立したが、今は関の小万が眠る寺として有名になっている。(小万についての詳細は、あとから関の小万もたれ松で説明)。 この写真は6月17日撮影。
関の小万の墓。 この写真は6月17日撮影。
関の小万は、孝女の仇討で知られ、鈴鹿馬子唄にもうたわれている。
「玉屋」 関を代表する大旅籠のひとつ、江戸時代に建てられた貴重な旅籠建築に当時の道具類や資料を展示、江戸時代の旅籠を再現している。かごも展示してある。
白玉の皮でアンを包んだ菓子、銘菓白玉屋。
高札場跡、陣屋跡。いまは、郵便局。
餅菓子「関の戸」の深川屋。瓦屋根のついた看板が目を引く。
「橋爪家」 江戸時代の初めから両替商を営んだ豪商、道に面して三角形の屋根があるユニークな建物。
「伊藤本陣跡」 関宿には伊藤、川北の二本陣があった。現在残っているこの建物は、本陣の店部分、川北本陣は、石碑が残るのみ、本陣の門は、近くの延命寺の山門に移築されている。
「川北本陣跡」。
「百六里庭・眺関亭」。町並みの中にある小公園。江戸から106里あるからつけられた名前。
「山車倉」。関宿の山車は、華美を競い狭い宿を練ったそうだ、現在も4台が残っている。
「鶴屋」は、 会津屋、玉屋とともに関を代表する旅籠で江戸時代は脇本陣もつとめた。脇本陣とは、本陣に準ずる宿として主に身分の高い人達の宿泊所としていたが、平素は一般庶民も泊まることができた。二階壁面に千鳥破風をのせた派手ないデザインが特徴だ。
「桶重」。窓越しに桶作りをしている人姿がみられた。典型的な関の町家の構え復元したものらしい。
延命寺、川北本陣の表門を移築したもの。
町並みに溶け込むようなデザインの百五銀行。
芸姑置店だった「遊快亭」。
「御馳走場跡」関宿に出入りする大名行列や身分の高い武家や公家に対して宿役人が出迎えや、見送ったりしたところ。
「浅原家」、江戸時代の面影を最も残している建物と言われている。米屋、材木商を営み屋号は江戸屋。塗籠の中二階、連子格子、店棚、馬つなぎの環などがあります。説明板より
日曜日なのに人っ子ひとりいない通り。
東の追分をめざして・・・霧雨が続く。
関をひとり占め、映画の主人公になったつもりで
「岩間家」、東追分で稼ぐ人足や車夫の上宿であった。人力車が登場するようになり常にに三十台は客待ちしていた。200年以上経ておりむぐり屋根が特徴である。説明板より。
伊勢神宮一の鳥居。ここ東の追分は、伊勢別街道の分岐点。実は、前回、ここまで来ていた。
ちょっと日差しが差してきたが・・・
「東の追分」
説明板より
ここの東の追分は、伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60キロメートル)と刻まれています。
相変わらず霧雨が降っているが、歩くことには支障はない、ただし、蒸し暑いのにはまいった。
「関の小万もたれ松」が見えてきた。
国道1号線に出てくる。大きな関宿の看板だ。
東の追分から次の亀山宿をめざしてちょうど10時30に歩き始める。関で時間をとりすぎたが、12時半に亀山の中心に行っていたい。これから2時間後だ。雨もほとんど上がってきた。
1号線にそって、小野川を越えて先に見える歩道橋を渡り右に入りJRの踏切りを越えていく。
右を流れる鈴鹿川にそって亀山をめざす。
名阪国道の下を通過して
大寺畷跡。東海道一の長畷だったところ。江戸時代は松並木だったが、枯れて桜並木に。
桜並木は、雨あがりの緑の道は気持ちがいい。
JR関西線を渡る歩道橋へ。
向こうからおばさん達の一団が下りてきた。
黙って通り過ぎることができない性分がここでも出てしまう。
”こんにちは!今日はどちらまで?” と声をかけると愛想のいい反応が返ってきて、そこで一気に盛り上がる。東京のおばちゃんたち、月2回、1年で完歩するというグループだ。日本橋からここまで来たというのだからおそれ入る。
証拠写真を撮ってもらおうとお願いしたら一緒の記念撮影になった。このグループ、あとから続いて20名くらいいた。
写真を撮ってくれた男性が、"一人すきな人を貰って行っていいよ"と言ってくれた。
"えっ、ほんま!" どれ、いや誰にしょ?と思っているうちに行ってしまった!"しまった!”
振り返ると・・・あー、二グループ行ってしまった!やっぱり江戸弁は、歯切れがよくてええなあ・・ その後も、後続の仲間グルーブにも会った。東海道を歩いている人は多いんだ。
結局、庄野でストップ、石薬師へは行かなかった。
また、静かな街道をすすむ。
急な上りを快調に・・・
布気神社、吸い込まれるように参道に入り込んでいった。ここには街道一の熊古茶屋があったらしい。芭蕉にもおなじみだったとか。探してみたが見当たらないし聞く人もいなかったのであきらめた。ざんねん!
三叉路を左、野村一里塚方面にすすむ。
穫り入れ時期もまじか、一番、暑い日差しがほしいことだろう・・・こんな風景には癒される。
しばらく歩くと大きな木が前方に見えてきた。野村一里塚だ。これまで見てきた一里塚では際立って大きい。椋の木、樹齢300年、幹囲5m、高さ20mで国の遺関に指定されている。11時51分。
亀山に近づいてくるとまた雨が落ちてきた。宿場の雰囲気が目の前に現れてきた。道が色分けされているのが珍しい。
          【46-亀山宿】
★亀山市観光協会情報より
東海道46番目の宿場町。東の端・露心庵跡から西の端・京口門跡まで、約2.5kmが亀山宿です。上の歌川広重「保永堂版東海道五十三次雪晴」は、「亀山に過ぎたるもの」とうたわれるほど豪華だった京口門を描いたもの。亀山は宿場町であるとともに、 亀山城の城下町としての顔も持っていました。そのため、見通 しのきかない曲がりくねった複雑な道や坂道が多く、城下町らしい特徴的な町並みとなっています。宿場は栄えていましたが、藩領内に幕府直轄の宿場が置かれたので、参勤交代で通 る大名達は亀山宿に宿泊するのを遠慮したといわれます。
一里塚から25分歩いて京口坂橋へ。これを渡るといよいよ亀山宿だ。
坂道を竜川にかかる京口坂橋をわたると左に亀山宿の西端にある「京口門跡」。亀山城下の西の入り口。
古い町並みの一戸一戸に木の札がかけられ、そこに元の屋号の名前が書き込まれている。
「宿場の賑わい復活プロジェクト」による「屋号札の掲示」。
城下町として、東海道46番の宿場町として・・"きらめき亀山21町並み保存分科会"が、歴史的なまちのたたずまいを復活する最初のプロジェクトとして屋号を記した木札をつくり該当するお家に掲げることを始めている。材料提供、木札製作、掲示作業などすべて市民有志によって行っているという。亀山の町を歩いて、その意気込みを強く感じた。すばらしいことだと思う。
しおや跡。
ふたみや跡 いづつや跡
うまもちそなえや跡。 何屋さん? 馬持ち備え屋? ずっと木札の家が続く。
道路標識もきちんとしている亀山市。
ますや跡。
【右 郡役所  左 東海道】
【右 東海道  左 停車場】
このあたりめまぐるしく角を曲がりながらすすむのでまるで宝道を探しているみたい。城下町特有のことなのだろう。
突き当たりに「西町問屋場跡」。
【亀山宿】
亀山宿は、城下と併せると町の規模は大きかったが、本陣、脇本陣は各一軒しかなく、旅籠も21軒で宿場としては大きくはなかった。伊勢参詣路から外れていたために「さびしい城下」と表現されていることもあるらしい。
雨がかなり降ってきたが、コースから離れた亀山城跡へ行く。時間は予定通り。
亀山城への坂道ひだりの池の側に「石井兄弟亀山敵討遺蹟」がある。
「亀山城」
天正18年(1590)秀吉の命により築城された「粉蝶城」と呼ばれた美しい城だったらしい。後に徳川方の城となるが、寛栄永9年(1632)に幕命により解体され、後に再建された多門櫓だけが現在も残っている。
「亀山城多門櫓」。
↑多門櫓から亀山市街、雨でかすんでいる。
ベンチは雨でぬれ、弁当を食べる場所がない。少し雨宿りしながら仕方なくカサを差して歩いた。写真が撮りにくい。道路表示もいろいろ。
池の側を下り左の坂道へすすむ。
木札の通りが続く。
「高札場跡」、交差点角の酒屋の前に説明板が立っているだけだが、このあたりが宿の中心的な位置で、本陣、脇本陣、高札場などがあった。
亀山城の正門だった「亀山城大手門跡」。ここまでお堀があったとか・・・・。
交差点を交番側の商店街に入る。雨がかなり強くなってきたので雨宿りと水補給。むし暑い。
東町商店街も昔の屋号がずっと掛けられている。よくぞここまで徹底されたものだ。
「江戸口門跡」。この江戸口門は、東海道の番所としてではなく亀山城の東端とされ、西端の京口門とともに亀山城の東の城門として位置づけられていた。
ここまで、ずいぶんと道が複雑に曲がっていたのは、城下町のつくりなのだろう。逆に戻れと言われても地図がなければむずかしいかもしれない。
東海道と「巡見道」との分岐点。巡見道は鳥居を
くぐってすすむ。
「従是西亀山宿」。ここから西亀山宿る
亀山の雰囲気が気に入った、先を急ぐので今回は、さらりと歩いたが、再度、訪れてみたい。
小ぶりだが雨に濡れながらどんどんすすむ。ローソクでおなじみの亀山ローソクの前を通り和田の一里塚をめざす。13時43分。
交差点をまっすぐにすすむ。
すっかり郊外、もう、腹がへって・・・雨は降ってるし休憩場所はないし。店もない。ともしびというお菓子やさんを過ぎると見えてきた。
和田一里塚だ。ちょうど14時。昔は松並木の続くさびしいところだったそうだがいまもさびしいぞ。
桜並木の下り道をすすむ。晴れていたらここらで弁当が食べられるのに・・・もう、弁当のことで頭はいっぱい!
いったん1号線に出るが、すぐ側道に入る。
すこし進むと「和田の道標」、東海道から旧神戸道に分かれる所に立っている。
「従是神戸・白子・若松道」「元禄3庚午年正月吉辰 施主渡会益保」と刻まれている。若松港への重要な道路だったらしい。
すぐ近くに「法悦題目碑、東海道刑場供養塔」。
昔の刑場跡。日蓮宗信者の谷口法悦という人が刑死者の供養のために建てたという。やけ地蔵ともいうらしい。さびしいところだったんだろう・・・なんとなくそんな雰囲気のする通りが続く。
トケイソウだったか?雨にぬれて咲いていた。
306号線をくぐりさらにすすみ川合椋川橋を渡りさらにすすむ・・・小粒だが雨はやまない。
持っている地図は濡れて破れてきた。
川合町自治会の標識のところを井田川駅方面に右折してすすむ。
1号線にかかる陸橋、オートバイの若者が続く。
亀がローソクを背負っている・・・道路に埋め込まれたローソクの町、亀山のPRか?
亀山市は、ここ井田川町までを江戸の道として整備している。実際に亀山市をここまで歩いてきて道標や説明板がきちんとしていて関係する人達の熱意がよく伝わったきた。
すぐ左へJR関西線に沿ってすすむと二宮クンが雨の中、ひとり勉強をしていた。えらいなあ・・・!
JR井田川駅前を14時43分に通過、雨もふり続く。駅前を通過し歩道のない道をJAの先で右へ、今度はJRの線路を渡って並行してすすむ。
駅前を通過し歩道のない道をJAの先で右へ、今度はJRの線路を渡って
田圃道を線路に並行してすすむ。これ以上降らないでほしい、そう願わずにはおられない風景。
大木の交差点を直進、やや上がり道を、地福寺、小田公民館、地蔵堂前を通過・・・
人影のまったくない街道をひとりすすむ、濡れながらすすむ、あー腹が減ったなあ・・・。
和泉町公民館の時計が午後3時を指している。
はヴォーリズが設計し、昭和4年(1929)に建てられました。篤志家の米国人がヴォーリズの熱意に打たれて遺産を贈与したので、この礼拝堂が建てられたといわれています
公民館の右の坂道を上がっていくと安楽川の堤防に出る、
堤防を右へ行き正面の和泉橋を渡り左へ。
和泉橋を渡る、渡り切ると左へすすむ。
安楽川にかかる和泉橋から、雨で向こうが見えない。↓橋から上流を・・・雨で見えない。
やっと昼食、うれしいな!
堤防沿いの最初の道を下りたところに神社があった!川俣神社、雨宿りしやっとおそい弁当を食べた。あー助かった!お賽銭はずんだよ!
神社で最後のひとり作戦会議?今日は、石薬師まで行かないで次の庄野宿で切り上げることに決定。また、小雨の街道を歩き始める。
この道もお寺がやたらと多い。15時32分、「中冨田一里塚」前にきた。立派な道標が建てられている。これまでの一里塚の道標では一番立派だと思う。
ものすごく大きな鉄塔、どうして撮るか・・・
やっぱり田園風景がやさしくていい。
「従是東神戸領」
「女人堰塚碑」。安楽川に堤防がなかったために毎年水害に見舞われたが、藩主が許さなかったために、男性が築堤をして打ち首になると地区の将来がなくなると、女性が夜間ひそかに工事を続け6年かけて完成させたという記念の碑。
道の反対側にひっそりと「山神」
だいじょうぶと いつも心にほとけさま
そうだ、仏様がみてくれている。

あっ、向こうからも誰かがみてる?
塀越しに顔を出して・・・迎えてくれているのか
ありがとう、きれいだよ!
また、雨がきつくなってきた。
1号線を渡りバイパスの下を通りまた側道へとすすんで行く、川俣神社、常楽寺の前を通過。
【45-庄野宿】
庄野宿は、寛永元年(1624)に設置。本陣、脇本陣が各1軒、旅籠15軒で宿場のうち最も遅く設置された宿。
広重の「庄野の白雨」でよく知られた宿だ。
亀山市から鈴鹿市の庄野へ。
「庄野宿本陣跡」、庄野集会所の前にある。本陣は、大名や役人などが宿泊する施設で、庄野の本陣は澤田氏が勤めた。
「高札場跡」。とても読める説明板ではない。
古い家が続く道をまっすぐにすすむ。
有名な「庄野の白雨」、広重の作品の中でもとくに高い評価を得られている傑作。白雨とは夕立のこと、傘に東海道五十三次、竹のうちと書かれている。PRか?
庄野は、古い街並みに往時の面影はあるものの本陣跡の石碑がある程度で、他の説明板もほとんど字が読み取れないほどに放置され意外な感じがした。
そう言えば、一週間前に庄野宿、石薬師宿への地図または資料がほしくて鈴鹿市のホームページをたどると観光協会へリンクされていたので電話したがつながらず、問い合わせ先と記載されていたメールに依頼記事を送信しておいたが、今日までなんの連絡もない。
古い町並みの中で目立った建物、「庄野宿資料館」についたが、残念ながら16時を過ぎたばかり、閉館の時間で女性の担当の人が、すまなさそうに丁寧に応対してくれた。
ここは旧小林家を創建当時に復元し、庄野に残る宿場関係の資料を集め公開しているが、残念ながら見ることができなかった。
「問屋場跡」。御伝馬所ともいう。ここには、問屋2名、年寄り4名、帳付、馬差が各数名が交替で詰めていたらしい。任務は、公用所書状の継立、往来者の人足、馬の割り振りて・・・等。
「卿会所跡」。卿会所は、助卿の割当てを受けている各村の代表者(庄屋または肝煎)が集会する場所だった。理容院の壁にかけられた説明板。
これまで見てきた中では、この45番庄野宿が最も規模が小さな宿場だと思った。
庄野宿の道標を右にすすみ日本コンクリート工業の大きな工場の横をすすむ。
ここからは、帰りの最寄駅のJR関西線加佐登駅に急ぐだけ。調べていた時間表を確認しょうとしたらその用紙がない。忘れてきたことに気がついた。さあ大変!

JR関西線の踏切をまたぐとそのまま線路へ並行して急ぐ・・・
かすかな記憶をたどって16時18分がうまく接続する時刻だろうと思って急いで加佐登駅に14分到着。 ところがなんと正確な時間は11分だった。 あー、出たばっかりや、また、置き去りにされた! 次の電車は、17時3分。 と大きな声で言うたら改札の外にいたいた人たちの視線が ???? そや、ここは、名古屋圏や、関西と違う。
「名古屋」行き電車、ここはJR東海。
ご褒美の缶ビールでもと思って駅前を見渡してもどこにも見当たらない。
ホームに出て、階段の陰で着替えをした。 やっと、生き返った心境だった。 びっしょり濡れていた。
やっと17時3分の亀山行きに乗る。しかし、亀山駅で乗り継ぎ時間が、なんと30分もある。
暗くなった駅の売店で缶ビールを買ってひとりでご褒美をした。

やっときた電車は1両。そのすしずめ電車で柘植駅へ。 草津線に乗り換え、ダッシュしてやっと座席を確保した。 草津で新快速に乗り新大阪着が19時54分。

いったい、どれだけかかったのやら ・・・
ああー、ちかれたの1日になった。
万歩計は35000、たいして歩いてはいなかった。 前回も大雨にあった。 やっぱり、あの鈴鹿あたりは多雨なところなんだろう。

次回は、今回ゴールの加佐登駅がスタート、四日市宿まで歩く予定。
また、雨の中をよく歩きました。ご褒美だよ!

経路と交通費(自宅から最寄り駅は除く)
往路 JR新大阪駅→JR関西線関駅 青春18切符
2,300円
復路 JR加佐登駅→JR新大阪駅
歩数 JR関駅→JR加佐登駅 約36,300歩